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「日帰りコラム」の更新が止まっている為、ここで書いたものを再掲載しようと考えています。
その第1弾 『長浜』コラム 長浜のコラムは書いた事がありますが、追記という事で。 新長浜駅です。 今年になって出来上がったのかな?この駅のモデルになっているのが右図の旧長浜駅です。明治15年に北陸線の始発駅として建設された初代の長浜駅でして『長浜鉄道スクエア』に保存されています。 現存する駅舎としては日本最古なのだそうです。 詳しくはこちらで。 この旧長浜駅をモデルに現代風に建てたようですね。なかなか開放感があって、おしゃれで素敵な駅になっていました。 左図はそれまでの長浜駅でして、実は黒壁スクエアに行くには改札を出てそのまま歩いていけばよかったのですが。湖の方角にある長浜城に行くには、もう一度駅の階段を上り下りして反対側の出口に行かなくては行く事が出来ませんでした。つまり湖側の改札が無かったんですよ。 足の辛い人にはなかなか面倒な作業でした。 しかし、新しくなってそれも解消し、今ではバリアフリーの快適な駅になっていました。 こういった古い駅も趣があって良かったんですけどね。琵琶湖線(琵琶湖を一周する)が開通になるのと同時に駅も綺麗にしたのでしょうね。まぁ、NHK大河の「功名が辻」のおかげかも知れませんが(笑) さて、長浜と言えば豊臣秀吉です。 昔は「今浜」と呼ばれており、最初からここに町があったわけでは無いのです。 この辺りは前のコラムでも書きましたが・・・・。 右図は「長浜」の名前の由来となった竹中半兵衛の詩です。竹中半兵衛とは、秀吉がまだ「羽柴」と名乗っていた頃、最初の彼の軍師となった人ですが、病気を患い、彼は秀吉の長浜時代、中国地方攻めの時、陣中で亡くなっています。秀吉が京都で養生するようにと進めたのですが、彼は戦場で死ぬのが武士の本懐と頑として聞かなかったそうです。彼のお墓は岡山にあると聞きました。 和歌に詳しくないので意味は分かりませんが、 【君が代も我よも供に長濱の 真砂のか須の つき屋らぬまで】と書かれてあります。 長浜には『豊国神社』があります。この神社は全国に5ヶ所あるそうですよ。その一つが京都の秀吉の墓所前にある『豊国神社』 そして現大阪城内にある『豊国神社』、それからここ。 そして石川県。加賀の前田利家は秀吉とは親友だったんですよ。しかし徳川家康の手前それをおおっぴらには出来なかった。だから、こっそりと祀っていたとの事でした。でも今はちゃんと大々的に神社として存在しています(あたりまえ) そして名古屋にあります。ここは秀吉の祖国ですからね~。あっても不思議じゃない(笑) 余談ですが、娘が『豊国神社』に行く度に瓢箪の根付けを買って帰るんです。 しかし携帯電話につけている為か、同時につけているお札の力か、いつも壊れてしまいます(苦笑) やはり、本物の神様には勝てないという事でしょうか。 ここは東照宮の根付けも試してみたいところですが、娘は家康が大嫌い(苦笑) 絶対に実現はしないでしょうが(笑) 神社内には加藤虎之助清正の銅像が建っています。右側の石は「虎石」 加藤清正は秀吉が引き取って育てた子供です。その子供の頃のお話し、清正が城内の庭に投げ込んだ石を「虎石」と呼び、大事にしていたとか・・・・。まぁ、それ程までに秀吉は清正を寵愛していたと言う事を言いたかったのではないかと思われます。しかしですね、この「虎石」子供が投げ込めれる大きさではありません(苦笑)大人でも無理でしょう。 なにやら弁慶伝説を思い出しましたよ(笑)加藤清正と言えば「虎退治」で有名ですが、勇ましいイメージがあるのでしょうね。実際に虎退治をしていたのは彼だけでなく、三成だってやらされていたんですよ(笑)ただ、彼が有名になったのは、彼の娘さんが嫁に行く時、その時に捕った虎の頭骨を嫁入り道具に持たせた為、それが今に残っている所為ではないかと思われます。 嫁入り道具に虎の頭骨・・・・。何か、意味があったのでしょうか・・・・。 この「虎石」、伝説がありまして、江戸中期、長浜大通寺の庭に、長浜城中よりこの石を移したところ、毎夜「いのう、いのう」と泣いたそうです。「いのう」とは奈良でも使う方便ですが「帰ろう」という意味。 それで慌てて元に戻したそうです。しかし、何故それがここに?ここでは泣かなかったという事でしょうか(笑) 左図は長浜にある「妙法寺」というお寺です。元々小谷にあったのですが、浅井長政の敗北と共に、小谷の町は丸ごと長浜に移転されました。 そしてこのお寺は実はこの門しかありません。本堂と呼べるものはあるのですが、どうも火災にあって無くなってしまったようです。 今、募金を募って本堂建設をしようと試みているようでした。 で、ココなのですが、豊臣秀勝のお墓があります。 秀勝という名前は、実は3人おりまして、豊臣秀勝が二人、羽柴秀勝が1人。 有名なのは羽柴秀勝で、この子は織田信長の4番目の息子で御座いまして、秀吉が信長に頼み込んで養子に向かえたというエピソードが残っております。 そしてもう1人の豊臣秀勝とは、秀吉の姉の子供ですが、秀吉に世継ぎがいないと言う事で向かえた養子、秀次の実の弟になります。彼もまた兄と共に秀吉の養子になっていたようですね。 そして最後の1人、これは知らなかったのですが、秀吉には実は3人息子がおりまして、この長浜時代、側室・南殿との間に生まれた子供だったようです。初めての嫡男に秀吉の喜び様は凄かったようで、長浜城下の町民に砂金をふるまい、これを元に長浜曳山祭りが始まったといわれています。 しかしながらこの子も幼くしてこの世を去り、それから長く彼には男の子が授かりませんでした。晩年、淀姫との間に鶴松という男の子も生まれますが、この子も3歳でこの世を去っており、最後に授かった子が秀頼でした。(秀頼は秀吉の子供ではないという噂は当時からあったようですが・・・) その最初の嫡男・幼名「石松丸」のお墓がここにありました。 このお墓は学術的に調査され、秀吉の書簡もあり、ほぼ間違いないだろうとされています。それにしても、秀吉のイメージはもの凄い「子煩悩」なのですが、それにもかかわらず、跡取りには恵まれなかったんですね。なんだか無情を感じます。彼の嫡男がいたら、この世はどう変わっていたのでしょうかね~。まぁ、これも歴史の流れなのでしょうか。なんとなく、家康の天下以外に考えが及ばないというのが、自分的に情けないのですが(苦笑) みなさまはどう、思われますか? PR |
とても見やすくなりました、ありがとう~
茶々と現代の女の子が入れ替わって、すったもんだして現代に戻ったら、関ヶ原の戦いで豊臣が勝って、徳川はただの大名、首都は大阪、標準語は大阪弁(爆)、というSFを読んだことありますよ。 息子じゃなく、母親(女性)を変えないと歴史は変わらないのかも。 ところでガルダ様、『巧妙が辻』ではなく『功名が辻』です(笑)。 でも『巧妙』だと思ってる人は、凄く多いです(笑)。
【2007/09/19 01:13】| | ごるごん #9b11f484c9 [ 編集 ]
Re:無題
>茶々と現代の女の子が入れ替わって、すったもんだして現代に戻ったら、関ヶ原の戦いで豊臣が勝って、徳川はただの大名、首都は大阪、標準語は大阪弁(爆)、というSFを読んだことありますよ。
大阪が首都だったらもっとごり押しの強い日本になってました?(笑) 武士道がもて囃されるのではなく、商魂がもて囃されていたら凄い国家になってたかも(苦笑) >息子じゃなく、母親(女性)を変えないと歴史は変わらないのかも。 いや、ほんま。親はある程度子供が大きくなったら引っ込んでいるのが一番ですね。肝に銘じておきます。 >ところでガルダ様、『巧妙が辻』ではなく『功名が辻』です(笑)。 >でも『巧妙』だと思ってる人は、凄く多いです(笑)。 う?あ、本当だ。言い訳するようですが、本人は功名と書いているつもりでした(涙) 書き直しておきます。 |
ガルダさん、お邪魔致します。
随分すっきりとしたというか、それらしき雰囲気のお部屋ですね。 精力的に記事を入れておられて、拝見していて楽しいです。 私も今年長浜へは行きましたが、こんなに丁寧には行っていません。 色々と勉強になります。 レオさん、いらっしゃいませ
長浜は、小谷と長浜の二つの歴史を持った町ですので、1回ではなかなか廻り切れませんでしょう(笑)
私も3回目ですけど、まだまだ不十分です。 戦国好きな私にとってとても楽しい町ですので、何度も行ってはあれこれと廻っているのですけどね~。 なにせ、片道2時間ですからね、日帰りだと限られてしまいます。 |
大阪が首都だと、もっと現実主義になるのかしら?
戦争なんか『割に合わん、損するだけや、やめとこ』ってなるといいな(笑)。 そのSFの茶々さんは、引っ込んでなどいなかったですよ。
【2007/09/21 01:07】| | ごるごん #9b11f484db [ 編集 ]
鼻息が荒いかも知れません(笑)
>大阪が首都だと、もっと現実主義になるのかしら?
>戦争なんか『割に合わん、損するだけや、やめとこ』ってなるといいな(笑)。 そうなればいいですけど、逆に鼻息が荒くなりそうで怖いです(苦笑) でも、自分に被害が及びそうだったらさっさと手を引きそうですけどね(苦笑) >そのSFの茶々さんは、引っ込んでなどいなかったですよ。 そうなんですか? 気になります。なんという本なんですか? |
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