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【2017/09/21 10:37 】 |
大阪城の変な話
結構有名な話なので、目新しくもないかも知れませんが、2つばかり書きたいと思います。

osaka1.jpgまずはこれ。
『城中焼亡埋骨墳』という碑です。
玉造口に続く入り口付近にあるのですけど、まず、誰も足を踏み入れないでしょう・・・・、と思います(苦笑)
誰でも入れる場所なんですけど、気付かれない事が多いんです。
その為か、周囲は枯れ葉で覆われています。

この碑が建てられたのは明治初頭。
と言うか、慶応4年ですので幕末と言った方が良いかもしれません。
鳥羽伏見の戦いで敗れた幕府軍。そのトップにいた15代将軍・徳川慶喜は大阪城からコッソリと逃げ出しトンズラ。

osaka2.jpg残った幕府軍と薩長軍が話し合い、大阪城の無血開城が取り決められました。
ところが、それを不服と感じた幕府軍の兵士が本丸御殿に火を放ち、瞬く間に大阪城は落城してしまいました。
力の限り抵抗して明け渡したのなら気持ちの中で整理が出来るが、そうではないこの現状に、武士として憤りを感じたようでした。
その心を薩長の武士達がくみ、「彼らこそ武士の鑑である」とし、焼け残った瓦礫の中から遺骨を掘り出し、ここに埋葬してこの碑を建てたのでした。
ですからここには大阪における最後の武士が眠っているのです。
で、この写真をよくご覧下さい。
左に小さな墓石のようなものが建っていますでしょ?

osaka3.jpg近くまでよって撮してみました。

これなんですけどね~、なんとも早とちりな大阪人を表しているものです(苦笑)
まぁ、大阪の人がこれを建てたという証拠は無いので大阪人と言い切れませんが、熱烈な戦国ファンがした事だと言う事だけは分かります(笑)

osaka4.jpg更に近寄って撮してみますと・・・・、わかります?
『淀君の霊』と書かれてあります。
随分前から「大阪城には大阪の陣で死んだ兵士の骨が埋葬されている碑がある」と言う噂を聞いていました。
しかし、そんなもの、実は見た事がなかったので「本当かいな」と思っていました。
憶測ですけどね、どうやら、この碑を間違えたようですね。

ここに淀姫の遺骨が埋まっているとは、思えないですね~。
なにしろ豊臣時代の大阪城は徳川時代の今の位置より7メートルも下にあるのですから・・・・。


もう一つのお話し。
osaka5.jpgこれもあまり気付かれていないのですが、天守閣前にある碑です。
『秀吉手植えの樟の碑』と言います。

上記にも書きましたが、秀吉時代の大阪城はここから7メートル下で御座います(笑)
もう、お解りですね?
ありえません(苦笑)
これが建てられたのは明治31年。
それまでに「手植えの樟」という話が伝説化していたそうで、その伝説を第4師団司令部の司令官が形にしたとの事。

当時、古株だった樟を指して「大事にしなさい」と言ったそうで、現在この写真に見えている樟はそれから何代目かにあたるのではないでしょうか。

ま、大阪城は波瀾万丈の人生を送っておりますので、色んな伝説や変わった事柄が結構あるんですよ。
また、いつか書き連ねて見たいと思います。



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【2007/09/17 15:18 】 | 大阪コラム | 有り難いご意見(3) | トラックバック(0)
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有り難いご意見
無題
こんばんは^^

最初の碑はたしかに重たい雰囲気です。
でも、お参りしています。

横の淀様の碑ですが、
吉村氏と刻まれていますよね。
ぱっと見たとき、湖北の吉村氏かなと思いました。
太融寺の淀様の碑にも湖北の人の力添えがあった記憶があります。
【2007/09/18 22:20】| URL | 楠七郎 #9b2b05fefa [ 編集 ]
太融寺のお墓
>太融寺の淀様の碑にも湖北の人の力添えがあった記憶があります。
気付きませんでした(汗)
太融寺は実家の檀家寺なので、今度機会があったらご住職にお聞きしておきます。
んじゃ、この写真の碑は淀姫のお里の方がここに建てたのかしら?
でも、どうしてここに(苦笑)
他にも場所があったでしょうに。あ、他だと城中だからこっそりと出来なかったのかしら。
これ、許可を取ってここに建てたとなると、誰が許可したのでしょうかね~(笑)
【2007/09/19 12:12】


太融寺
おはようございます。

淀様は大阪城の東北、今の大阪城公園駅近辺?弁天橋近辺にあったとされる神社に祀られていたそうです。
そこに施設をたてるにあたって、淀様の意思に関係なく、そこに神社が存在できなくなりました。
そこから出てきた骨が多分淀様のだろうということで、
とある方の力添えで太融寺にお墓をたてたと聞いています。

他、大阪城の鬼門にあたる方向に淀殿を神さまとしておまつりしたこと、
淀様が信仰されていたされる鴫野神社が今、生國魂神社さんにあること等も、
とある所所で読みました。

以下は簡単な説明になってしまい、信じてもらえるかわかりませんが、
私の知り合いで、いわゆる霊が見える、霊と交信できる人がいまして、
この太融寺に一緒にお参りして、淀様のお墓にも参ったのですが、
そこで淀様の思いを聴けました。
どうやら気位の高い淀様は、境内の隅にあるのが気に入っていないそうです。
どなたか心ある人(太融寺さんの檀家さん等)から、ご住職にお話していただけないでしょうかと、思っていたところです。
【2007/09/19 09:57】| URL | 楠七郎 #9b2b05fefa [ 編集 ]
Re:太融寺
>淀様は大阪城の東北、今の大阪城公園駅近辺?弁天橋近辺にあったとされる神社に祀られていたそうです。
>そこから出てきた骨が多分淀様のだろうということで、
>とある方の力添えで太融寺にお墓をたてたと聞いています。


これは何処かで読みました。

>淀様が信仰されていたされる鴫野神社が今、生國魂神社さんにあること等も、
>とある所所で読みました。

これは確認しました。確かに御座います。

>どうやら気位の高い淀様は、境内の隅にあるのが気に入っていないそうです。
>どなたか心ある人(太融寺さんの檀家さん等)から、ご住職にお話していただけないでしょうかと、思っていたところです。

これなのですが、太融寺さんのおっしゃるには、戦後、家を失った方々に地所を分け与えたところから、現在のような小さなお寺になってしまったようで、今地所を広げるべく交渉中で、それも広げる事が出来るのではないかという所まで話が進んでいるそうです。
淀君にはもう少しお待ち頂けたらと思いますね。
確かに、行った時、「ここは暗いし可哀想だな」と思いましたね。
【2007/09/19 12:09】


Re:太融寺
情報ありがとうございます。

淀様の淀といういう表現も実は問題があるらしく、
当時は、二の丸様とか他の表現がなされていたと聞きます。
淀君の「君」の表現も蔑称にあたるとか^^;
表現も難しいですね。
【2007/09/20 00:30】| URL | 楠七郎 #9b2b06224c [ 編集 ]
まだきちんと決まっていないので
きちんと決まればまた報告します。

>表現も難しいですね。
本当に。
表現というのは時代時代で変わっていくもので、私的には「淀君」でもいいかなと思ってます(笑)
だって「幸村」だってそうでしょ?
知名度が高い方が優先順位ですよ(笑)
【2007/09/20 11:07】


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