忍者ブログ
  • 2024.04«
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • » 2024.06
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

【2024/05/05 17:37 】 |
にっぽんの心の仏像100選

宗派を問わず、誰しもが一度は耳にするお経、『般若心経』。
『大般若経』と言う600巻もあるお経が存在しております。あの「西遊記」で有名な玄奘三蔵が持ち帰ったお経としても有名ですが、これを短くしたのを『般若心経』と言うお経であると言うのは周知の事実です。しかし何が書かれてあるかと言う事になると、なかなか難解で手ごわい経典です。

様々な人が様々な解釈で様々な本を出されています。
どの本を読んでも漠然と伝わるけど、「何か違う」と感じてしまうのは、『般若心経』と言うお経が人によって、個々の感性で感じ取っているからなのだろうかと思われます。

そもそも「般若」って何?

こっからですよね(苦笑)
パーリ語(原始仏典で主に使われていた文字)で「バンニャー」と呼ばれているもので、発音のまま漢字に訳された文字です。
意味として「知恵」をさすのですが仏教では「智慧」と書き、「知識」ではなくもっと感覚的なもので、昨日の記事ではありませんが、「生きるための智慧」の事を指し、「己の我心を削って本来の自己を見い出すのが仏教で呼ぶ智慧です」と
黄檗禅のHPでは紹介されています。

簡単に言えば仏教典と言うのは生きるための哲学が書かれたものであると理解しています。
以前に書いたかと思うのですが「西洋の哲学は自我を教え、日本の哲学は無我を教える」のだそうです。
きくばりの心とは、この教えから来ているのだろうと思われます。
相手の事を第一に考えて行動すれば、人は互いに相手の事を想い、いつしか穏やかな「和」が生じると言う事、でしょうか。

大学の頃、この「智慧」のことについて何度も教授頂いたのですが、若かった私ではまるで実感が涌かず、正直言って理解が出来ていませんでした。
ただただ、「観音経」の白文を読み解くことばかりに気が行って(苦笑)

「智慧」は経験に基づいてついていくものだと分かったのは中年になってからなのですから、どうしようもないですね(苦笑)

仏教には「大乗仏教」と「上座部仏教(小乗仏教とも言われた)」の二つの大きな派があります。
簡単に言えば(私的な解釈ですが)「上座部仏教」と言うのは厳しい戒律により自己を高める信仰方法。
例えば比叡山の千日回峰行とか滝行とか、或いは鑑真和上が持ってきた戒律なんかもそれに入りますか・・・・。
「大乗仏教」はそのような厳しい修行をせずとも信仰していればいいという方法で、日本に広く広がったのはこの「大乗仏教」でした。

地蔵信仰などが如実にあらわしていますよね?
地獄に落ちたものでも、改心すれば救ってあげようとする信仰です。
あまねく衆生を救うと言う理由で、千手観音信仰もそれにあたりますね。
後は分かりやすく説明すると親鸞の「題目(南無阿弥陀仏)を唱えていれば皆、浄土に行けます」と言う教えなどがその特徴を現しているかもしれません。

そこでやっと本題です(汗)
NHKハイビジョンで「にっぽんの心の仏像100選」というのが日曜日に「前編」分だけ放送されました。
これを見て思っていたのですが、「大乗仏教」そのものだなと。
そして、これは『般若心経』の解釈に似ていると・・・。

仏陀は偶像崇拝を禁止し、思想を伝えよとしていましたが、それは学があるものだからこそ理解できることで、難しいことなど分からないという人にとって「仏像」というのはわかりやすい信仰方法です。
しかし、禁止したのですが仏陀はこうも言っておりました。
「重要でない戒律はサンガの同意によって変更してよい」と。

分かりやすい形で目の前に威風堂々と立つ仏像はそれだけで自己を見つめ返すことが出来る空間です。
「仏様は愚鈍な私でもこうして手を差し伸べて救おうとしてくださる」
そんな風な思いを抱かずには居られない空間です。
また、そういう風に思えるよう、様々な姿で日本には存在しています。
心に痛みのある人は、「仏様の前に立つと見透かされているようで、私は己の心を見つめなおし、何度も反省したり、時には差し伸べられる手にすがって泣いてしまう」と言われます。
こういった心の開放がすなわち、仏教の教えそのものだと思うのです。

仏典では難しすぎる教えですが、仏像は前に立っただけで即座にそれを伝えるのですから、それだからこそ、日本の各所で大事にされてきたのだろうなと思えるのです。

今夜、その後編が放送されます。
見ることが可能な環境におられる方々、見てみては如何でしょうか?


PR
【2008/02/04 17:05 】 | 戯れ言 | 有り難いご意見(4) | トラックバック()
<<昨日はお出かけ | ホーム | 東京の雪>>
有り難いご意見
う~ん、
言えてますねえ。お釈迦様は確か苦行をしても何も得られないと、おっしゃった気もしますが、苦行すると何かを得られると言う信仰も根強いですよね。「偶像崇拝」は、元来、ほとんどの宗教で禁じられていますけれども、キリスト教でもそうですが、やっぱり人間、目に見えるものが無いと、って言う面もありますよね~。

 この間、子供向け番組だったかと思いますが、大乗仏教と小乗仏教との違いは?って、やっていて、よくわかった・・・んですが、すっかり忘れました(苦笑)。私の好きな「お稲荷さん」も本来神道だったんでしょうけど、何時の時代からか、仏教とも結びついてしまいましたしね。キツネに乗った荼枳尼天(ダキニテン)なんかは、個人的にものすごく?違和感覚えるんですが、まあこれもいたし方ない所かと(^^;;

 
【2008/02/04 18:12】| URL | MU!! #1e34a96d08 [ 編集 ]
Re:う~ん、
>私の好きな「お稲荷さん」も本来神道だったんでしょうけど、何時の時代からか、仏教とも結びついてしまいましたしね。

まぁ、ここは日本(笑)
来るものは拒まず、そして自分にあったものに変えていくのは得意であるお国柄ですからね(笑)
【2008/02/07 08:50】


そういえば?
PCは復活されましたですか??
【2008/02/04 20:57】| URL | MU!! #1e34a96d35 [ 編集 ]
Re:そういえば?
昨日、やっと持って帰ってきました。
【2008/02/07 08:51】


アーナンダでしたっけ?
チリを払わん ホコリを拭わんと唱えなさいと教えられ、この語句を繰り返し唱え続けて聖人と呼ばれるまでになったのは?

なんだか私は、そこに大乗仏教があるような気がしています(笑)

【2008/02/05 10:36】| URL | クラハゲ様 #57507cbde3 [ 編集 ]
Re:アーナンダでしたっけ?
アーナンダと聞いて、すっかり忘れています(苦笑)
彼の事を勉強したのは遙か昔でして・・・(笑)
その様であったか否かは分からないのですが、覚えていることは彼は「純粋な心の持ち主」であったという話だけです。
「純粋な心の持ち主」というのはとても心の強い人を指すわけで、世俗に流されず、情に溺れず、ストレスを貯めず、ただひたすら己の信じることを信じ続ける事が出来た人と言う事ですが、それから言えば、繰り返して唱えることで聖人になったという話は頷けますね~。
【2008/02/07 08:55】


般若心経
こんにちは^^
『般若心経は仏教の精要蜜蔵の肝心なり。このゆえに誦持講供すれば苦を抜き楽を与え、修習思惟すれば道を得、通を起こす、まことにこれ世間の闇を照らす明燈にして生死の海を渡す船筏なり。深く鑚仰し至心に読誦したてまつる。』
と言ってから般若心経をあげるところがあります。
また、神前では宝の御経、仏前にては花の御経、家のため人のためには祈祷の御経ともいわれます。奥深い経ですね。

私はずっと般若心経などを唱えたことがなかったのですが、数年前から唱えるようになりました。史跡めぐりしていて、ある時に自身の先祖への想いが出来ていないことに気づきました。

浄土真宗の家に育ちましたが、浄土真宗では般若心経を読まないんですよね。なんでも般若心経の最後のくだり(もしくは般若心経そのもの)が「呪(じゅ)」と解釈され、呪を唱えるのはある意味修行の形態であって、阿弥陀如来様はそんなことを憶えたり言わなくても南無阿弥陀仏と言えば極楽へ導いてくださるというおしえと反するみたいですね。そんな事を聞きましたが、実際、本願寺派では読んでいるとも聞きました。

まぁ、いろんな解釈がありますが、気持ちの運び方が大事だと思っております。
【2008/02/05 11:56】| URL | 楠七郎 #9b2b04a108 [ 編集 ]
Re:般若心経
真宗で読まないというお話しをココで聞いて、「そう言えば聞いたことがある」と思い出しました。
しかしながら、おっしゃるとおり真宗には様々な宗派があり、唱えることをしないとしていない宗派もありますね~。

「呪」ですか。
真宗ではそうだったんですね。しかし、私などは「真言」と言う意味であると聞いていたのでそんな風には捉えていませんでした。
「般若波羅密多の行」を行うと言えどこれは肉体を酷使する行ではなく、悟りを得る為の行い、つまり心がけだと解釈しているので、最後にある言葉「生き生きて、彼岸に達するものよ全き彼岸に達せるものよ、悟りあれ、幸あれ」と言う意味に続くのだろうと解釈しています。
【2008/02/07 09:13】


貴重なご意見の投稿















虎カムバック
トラックバックURL

前ページ | ホーム | 次ページ

忍者ブログ [PR]