宗派を問わず、誰しもが一度は耳にするお経、『般若心経』。
『大般若経』と言う600巻もあるお経が存在しております。あの「西遊記」で有名な玄奘三蔵が持ち帰ったお経としても有名ですが、これを短くしたのを『般若心経』と言うお経であると言うのは周知の事実です。しかし何が書かれてあるかと言う事になると、なかなか難解で手ごわい経典です。
様々な人が様々な解釈で様々な本を出されています。
どの本を読んでも漠然と伝わるけど、「何か違う」と感じてしまうのは、『般若心経』と言うお経が人によって、個々の感性で感じ取っているからなのだろうかと思われます。
そもそも「般若」って何?
こっからですよね(苦笑)
パーリ語(原始仏典で主に使われていた文字)で「バンニャー」と呼ばれているもので、発音のまま漢字に訳された文字です。
意味として「知恵」をさすのですが仏教では「智慧」と書き、「知識」ではなくもっと感覚的なもので、昨日の記事ではありませんが、「生きるための智慧」の事を指し、「己の我心を削って本来の自己を見い出すのが仏教で呼ぶ智慧です」と黄檗禅のHPでは紹介されています。
簡単に言えば仏教典と言うのは生きるための哲学が書かれたものであると理解しています。
以前に書いたかと思うのですが「西洋の哲学は自我を教え、日本の哲学は無我を教える」のだそうです。
きくばりの心とは、この教えから来ているのだろうと思われます。
相手の事を第一に考えて行動すれば、人は互いに相手の事を想い、いつしか穏やかな「和」が生じると言う事、でしょうか。
大学の頃、この「智慧」のことについて何度も教授頂いたのですが、若かった私ではまるで実感が涌かず、正直言って理解が出来ていませんでした。
ただただ、「観音経」の白文を読み解くことばかりに気が行って(苦笑)
「智慧」は経験に基づいてついていくものだと分かったのは中年になってからなのですから、どうしようもないですね(苦笑)
仏教には「大乗仏教」と「上座部仏教(小乗仏教とも言われた)」の二つの大きな派があります。
簡単に言えば(私的な解釈ですが)「上座部仏教」と言うのは厳しい戒律により自己を高める信仰方法。
例えば比叡山の千日回峰行とか滝行とか、或いは鑑真和上が持ってきた戒律なんかもそれに入りますか・・・・。
「大乗仏教」はそのような厳しい修行をせずとも信仰していればいいという方法で、日本に広く広がったのはこの「大乗仏教」でした。
地蔵信仰などが如実にあらわしていますよね?
地獄に落ちたものでも、改心すれば救ってあげようとする信仰です。
あまねく衆生を救うと言う理由で、千手観音信仰もそれにあたりますね。
後は分かりやすく説明すると親鸞の「題目(南無阿弥陀仏)を唱えていれば皆、浄土に行けます」と言う教えなどがその特徴を現しているかもしれません。
そこでやっと本題です(汗)
NHKハイビジョンで「にっぽんの心の仏像100選」というのが日曜日に「前編」分だけ放送されました。
これを見て思っていたのですが、「大乗仏教」そのものだなと。
そして、これは『般若心経』の解釈に似ていると・・・。
仏陀は偶像崇拝を禁止し、思想を伝えよとしていましたが、それは学があるものだからこそ理解できることで、難しいことなど分からないという人にとって「仏像」というのはわかりやすい信仰方法です。
しかし、禁止したのですが仏陀はこうも言っておりました。
「重要でない戒律はサンガの同意によって変更してよい」と。
分かりやすい形で目の前に威風堂々と立つ仏像はそれだけで自己を見つめ返すことが出来る空間です。
「仏様は愚鈍な私でもこうして手を差し伸べて救おうとしてくださる」
そんな風な思いを抱かずには居られない空間です。
また、そういう風に思えるよう、様々な姿で日本には存在しています。
心に痛みのある人は、「仏様の前に立つと見透かされているようで、私は己の心を見つめなおし、何度も反省したり、時には差し伸べられる手にすがって泣いてしまう」と言われます。
こういった心の開放がすなわち、仏教の教えそのものだと思うのです。
仏典では難しすぎる教えですが、仏像は前に立っただけで即座にそれを伝えるのですから、それだからこそ、日本の各所で大事にされてきたのだろうなと思えるのです。
今夜、その後編が放送されます。
見ることが可能な環境におられる方々、見てみては如何でしょうか?
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