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信長さんの子孫、フィギア・スケーターの織田君が出来ちゃった婚をするとかしないとか話題にもなっていましたが、彼の話では無く、織田信長さんのお話。
信長が細川家に出した手紙が約60通もあったそうですね。 NHKニュース→クリック それの6通が公開されているとか。 大阪に来るのかしら・・・。 東京どまりな展覧会が多くてつまらないです。 展覧会→クリック そんな信長さん、最近「歴史秘話ヒストリア」で取り上げられていました。 本能寺で死んだ信長さん。 彼の遺体は何処に?と言うミステリーが未だに解明されておらず、その影響力の大きさからあちこちにお墓が存在します。 京都・阿弥陀寺 → 地図 ここに残る古文書によると・・・。 ここの当時のご住職がまだ母親のおなかの中にいた頃、苦しんでいるところへ信長のお兄さんに助けられたのですが、結局子供は生まれたがお母さんは助からなかったのだそうです。 生まれた子供を織田家は育て、のちに京都の僧侶として出されたのですが、その人が阿弥陀寺のご住職だったそうで、その恩義もあり、本能寺の事を聞きつけ慌てて信長を救おうと本能寺に走って行ったそうです。 当時、本能寺は今の場所には無く堀川通り辺り(元本能寺町)にあり、阿弥陀寺もその近くにあったようです。 そんな事もあり、走って行く事が出来たんでしょうね。 住職が向かった時の本能寺はまだ騒然としており、表門からではなく、違う場所からもぐりこみ、信長の姿を探したんだそうです。 しかしながら既に信長は自害しており、ご住職は彼の遺体を法衣に包み、コッソリと阿弥陀寺まで持ち帰ったのだそうです。 そして遺体をすぐさま焼き、彼の葬儀を執り行ったと書かれていました。 その頃の阿弥陀寺は織田家のバックアップもありかなり大きなお寺だったそうです。 信長の遺体を求めて双方が右往左往している中、情報網の凄い秀吉がこの寺の事を聞きつけ、信長の葬儀を改めて執り行いたいと申し出たのだそうです。 しかしご住職はそれをキッパリと拒否。 死んでもなお、政治に利用されようとするのが嫌だったんでしょうね。 もう、ゆっくりと眠りにつかせてほしいとも思ったのかもしれません。 しかたがなく秀吉は木造を二体造り、その一体を償却し、信長と見立てて大徳寺で盛大な葬儀を執り行いました。 そのお墓が大徳寺・総見院に残っています。 あの秀吉がどうしてごり押しできなかったかと言うと、織田家に繋がりのあるご住職に手が出せなかった所為です。 ここで無理にすると、微妙な立場である秀吉は織田家家臣に狙われますからね。 後継者になりたい彼には良い事など何もないわけです。 しかし、ご住職が亡くなったと聞くや否や、秀吉は秀吉に逆らった阿弥陀寺を半分の敷地に縮小し、現在の場所に移転したのでした。 町の人々も秀吉の怒りを買いたくは無いので阿弥陀寺の参拝を控えてしまい、阿弥陀寺はすたれて行ったのだそうです。 しかし、それを救ったのは信長の小姓をしていた森蘭丸の森家。 阿弥陀寺には信長の墓だけでなく、本能寺で死んでいった蘭丸と彼の兄弟のお墓もあります。 移転された時に、遺骨も一緒に持って行ったと絶対に思いたいので、私はなんとなくこの阿弥陀寺に残る信長の墓こそ、本物ではないかと思ったりしました。 いつか、行けるかな~? 阿弥陀寺 PR |
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