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ものの本によると、武蔵自身が書いた著書には『下り松の決闘』の話は1行も出てこないのだそうです。 なんでも彼の弟子が後世に書き残した文章の中で書かれてあったらしく、そこからここから少し下がった場所にあった松の元で決闘したことが解ったのだそうです。 これがその松なのですが、この松は当時の松ではありません。 当時、ここに一乗寺というお寺があったそうで、この狸山と呼ばれる山越えをした人の目印となっていたほどの巨木だったそうです。 しかし、今では枯れて何代目かの松、なんでしょうね。 ここは、平敦盛とも関係のある場所です。 武蔵は決闘の当日、この神社に神頼みをしようとやって来たそうです。しかし、入るまでにハッと気付いたのですって。 「武士たる者、神頼みをするなどもってのほかだ。武士は他力に頼ってはならない。死こそが味方である」と思い直したのだそうです。 ですので、実際にここに参拝したというわけでは無いのですね。 まぁ、「改心の場」として名前が残ったと言うことでしょうね。 神に頼もうとした己の心の弱さを恥じた、と言う事でしょうか。 宮本武蔵という人物が如何なる人物なのか、実はよく知りません。小説や映画になっている彼の人物像というのは周知の事ですが、調べたことがないので実際はどのような人だったのかは、知らないのですよ。 寺院回りをしていますと、彼の絵画を何枚か目にします。 とても筆達者な良い絵を描く人であることは解っています。 有名な『五輪の書』も読んだことがないのですよ。 あ。 関ヶ原の乱に宇喜多氏の元にいて、参戦していたことは知っていました。 当時はまだ10代だったそうですが・・・・。 有名な『巌流島の決闘』も事実なのか否かは解りません。 佐々木小次郎という人物も謎が多いのでしょう? どんな人物なのか、詳しく伝わっていないと聞きました。 八大神社は詩仙堂の隣にあるのですよね。 詩仙堂にはよく行くのですが、私、ここに初めて訪れました(笑) ここで武蔵をプッシュしているのは、実は町おこしの一環だったそうですよ(笑) PR |
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