『関ヶ原の乱』を今更書いても、ご存じの方も多いので、ザッと概要を・・・・。

関ヶ原の乱・開戦地碑
1600年9月15日。
東の大名・徳川家康がかねてより「天下統一」に向かって、豊臣秀吉の死後に起こした戦です。
まぁ、仕掛けたのは秀吉の老後に軍師となった石田三成から仕掛けたのですが、そういう風にし向けたのは家康です。
徳川軍を「東軍」と呼び、石田軍を「西軍」と呼び、それぞれの思惑を載せた戦は、小早川秀秋の動向(裏切り)により「東軍」の勝利で終結しました。
余談ですが、この時秀秋はまだ20にもなっていなかった若い武将でした。その為どちらにつくか迷っていたようで、彼が当初から決めていた「西軍に加勢する」と言う事になったのならば、世の中は変わっていたかも知れません。
とにかく彼の率いる軍の数が相当あったようで、彼の動きでこの戦は決まっていたわけです。所がギリギリになって家康に威され、彼は東軍についてしまった。その為に彼に従った武将も増え、西軍について居た武将の土壇場の寝返りにより「戦局悪し」と西軍についていた九州の大名、島津軍も戦場離脱を果たしてしまったわけです。
まぁ、元より石田三成との相性も最悪だったようですが・・・・。しかし、家康につくのも嫌だと、なんと戦場中央突破という凄い事をして離脱をしたという話が伝わっています。
午後3時に終結したと昨日の記事で書いていましたが、正確には午後2時には決着がついておりました。
僅か6時間で終結した後のこの地は、山のような人馬の死体で埋め尽くされていたそうです(汗)
傍に流れる藤古川と相川は兵士の流す血で真っ赤に染まったと言い伝わっています。
所で、これ、なんだと思います?(左図)
木、なんですけどね、実はここ首塚なんです。首塚があったところと言った方が正確かも知れません。ここには首実検された武将や兵士の首が埋まっているのです(汗)傍に木があったんでしょうね。いや、後から芽が出てきたのかも知れません。考えるに、生首の養分を吸って、こんなに大きくなったんだろうかとか考えると、ちょっとゾッとします・・・・・。
『東首塚』と言うのですが、東西問わず、兵士の首がここに埋められたのだそうです。

勿論、地元の人にこのようにお寺として手厚く葬られておりますが・・・・。
首洗いの古井戸
『西首塚』と言うのもあるそうです。今回、お参りに行くことが出来なかったのが残念でしたが。こちらは胴塚とも呼ばれているそうです。JRの線路を隔ててあるので、今回行きそびれてしまいました。JRの線路を隔てて北が主に西軍の陣地で南が東の陣地が広がっています。西軍陣地を廻るだけで手一杯でした(苦笑)
上記にも書いたように、当時、この地にはおびただしいほどの遺体が放置されていたそうです。地元の農民達はそれらを哀れに思い、丁寧に一体一体土に返し、こうして供養塔をあちこちに建てたそうです。
それを今に伝えているのがこの五輪塔。
旧暦9月15日と言えば10月になりますかね・・・・。
だから丁度、この時期に近いのかもしれません。
当時は霧がかかっていたと言いますから、温度が途中で上がったのかも知れませんね。
この日の関ヶ原は一面の彼岸花。
400年経ってもこの光景は変わらないかも知れません。
それぞれの思いとそれぞれの夢や希望、そして失望と絶望。
そのようなものが怒濤のように押し寄せて来ました。
年を追う事に明らかになる史実。
彼らの思いは後世の人に、より正確に伝わって行くのだなと思うと、感無量です。
石田三成の陣跡でもある笹尾山に登った時、一匹の蝶々がずっと私の周囲を舞っていて、それは下に降りるまで傍にいました。
ふと、ここで陣を張って眼下に広がる関ヶ原を見つめていた彼は、「勝てないかも知れない」と思っていたが、心から本当に「勝って豊臣の世の安泰を願っていた」のだろうなと感じました。
兵どもの夢の跡、なのだと分かっていても、切なかったですね~。

家康最後の陣内にある、大悲救世観音像
アクセス
滋賀県米原駅より東海道本線へ乗り換え
各停及び準急で3駅関ヶ原下車(約20分)
史跡巡りは歴史資料館でレンタル自転車が便利
4時間500円
関ヶ原資料館
不定期に駅前出張所「観光案内」のお店も開いております。
参考
バス路線図
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