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【2024/03/28 17:33 】 |
大谷吉継

seki2.jpg



大谷にゃんぶ!
ではなく(笑)、元ネタの大谷吉継刑部少輔と言う戦国武将のお話です。
結構、有名な方なのでご存じの方も多いかと思われますが、少々お付き合い下さい。

土曜日は天気も良かったので兼ねてから計画していた「関ヶ原上陸」をしてまいりました(笑)
歴史資料館で自転車をお借りして、天下分け目の決戦の地をサイクリングを兼ねて、歴史の勉強を(笑)
大谷吉継と言う福井の武将は、「白い頭巾の戦国武将」として異彩を放っておりました。
彼の武将としての才能は、豊臣秀吉に、「吉継に100万の兵を与えて、自由に指揮させてみたい」と言わせ、徳川家康に、慶長5年(1600年)7月、会津征伐が終わり次第12万石に加増することを約束したとも言われる程の武将でした。
しかし、実現しなかった理由というのは、彼の病気にあったのです。
諸説がありますが、おおむね、彼はハンセン病患者であったろうと言うのが定説になりつつあります。
その病状を隠す為、彼はいつも顔に頭巾を被っていたというお話しです。

seki3.jpg天下分け目の決戦と呼ばれた「関ヶ原の戦」では、徳川家康は吉継は東軍につくと信じていたそうなんですって。所が吉継は決戦当日西軍にいた。この時家康はかなり狼狽したと言い伝えられています。
(写真は「関ヶ原古戦場跡・決戦地碑です)
何故、家康とも親しかった吉継が西軍にいたのか。
それはひとえに「負け戦と分かっていても、友情の為に西軍についた人」であったからでした。


逸話が残っています。
この逸話には二つの説があるのですが、人は違っても同じ内容で伝わっています。

「ある時開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を、1口ずつ飲んで次の者へ回す、回し飲みを始めた。この時、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者たちは病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったが、三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み(一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ちたが、三成はその膿ごと茶を飲み干したとされる)、気軽に話しかけてきた。その事に感激した吉継は、関ヶ原において共に決起する決意をしたとされる。ただし、これは秀吉とのエピソードであったという説もあり、秀吉という説には吉継が感涙し生涯の忠誠を誓ったというお話しがくっついてきます」

いずれにせよ、西軍の将・石田三成とは深い友情があったようで、この戦を始める前に、三成に面と向かって意見したのは吉継でした。
それでも戦を始めるという三成に、彼は従ったのです。

seki4.jpg開戦当時、実は吉継はその病の症状により既に失明していたと言われています。
彼に従い、彼の目として戦った人に平塚為広と言う武将が傍におりました。
関ヶ原の戦で大きく戦局を変えたと言われる武将・小早川秀秋の裏切りにより西軍は破れた訳ですが、その小早川隊の猛攻を三度まで押し返したほどの猛将でしたが、更に脇坂安治らの裏切りにより自害をします。
(写真は平塚為広の碑・大谷吉継の陣下にありました)
彼は自ら取った敵武将の首と共に辞世の句を吉継に送ったと言われています。

「関ヶ原の戦」は旧暦9月15日、午前8時に開戦、その日の午後3時には終戦を向かえた戦です。
その僅かな時間で数千万とも言われる戦死者を出し、川は真っ赤に染まったと言われています。
小早川秀秋と毛利方の武将達の裏切り、島津の戦線離脱と言う戦況の為、西軍はあっという間に負けてしまい、大谷吉継も「もはやこれまで」と自害します。

seki5.jpgそして彼のお墓は彼の陣跡より更に山の中に今もひっそりと建っております。
しかもこの墓は、敵武将・藤堂高虎の軍に従軍していた、藤堂高則(高虎の甥)によって建てられたお墓です。
この中には彼の首が埋まっているとの事。
有名武将ですのに、首が敵の手に渡らなかった理由というのがあります。実は自害する前に小姓の湯浅五助に申しつけていた話がありました。「首を敵に渡してはならない」と。
五助は主君との約束通り、悲しむ時を惜しんで彼の首を抱えその場を逃げ去り、山中に埋めている時に、運悪く高則に見つかってしまったのでした。
そこで彼はその武将にこう言いました。
「私の首を差し出す代わりに、主君の首は助けて欲しい」と。
そして高則は「他言はしない」と約束し、五助の首を跳ねて持ち帰ったとの事でした。
その後高則は家康に追求されたのですが、絶対に吉継の首の在処は話さなかったとの事です。
その潔さに家康は彼に褒美を取らせたと言い伝わっています。

seki6.jpgその湯浅五助のお墓も、主君の墓の隣に並べてありました。
命と引き替えても主君の首を守った忠義者と、今も大事にされています。

国道から急な階段と急な坂道を登る事約20分。
「熊注意」の立て看板もなんのその(苦笑)
普段の運動不足に叱咤しながら娘と共に軽い登山(笑)
人っ子1人居ない山中を登り、二人のお墓までたどり着けました。

普段、こんな軽い登山でも嫌がる娘が頑張った理由は・・・・。
大谷吉継は真田幸村の義父に当たる方だから、だそうです(苦笑)
ヲタの為には頑張れる娘でした(苦笑)

でも、訪れる方はおおいのかも知れません。
人気の武将ですからね~。

seki7.jpg
大谷吉継のお墓

この日も入れたばかりのような花が供えられていました。
あれから407年の月日が経っているにもかかわらず、山中にあるこのお墓の周囲は実に綺麗に整えられておりました。

 

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【2007/10/07 18:12 】 | 歴史 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
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有り難いご意見
佳き話です(涙)。
関ヶ原上陸 お疲れ様&達成おめでとうです。
いろいろなところで目にしてきましたが 改めて触れてみても佳い話ばかりですね。
でも 湯浅五助と藤堂高則との遣り取りは知りませんでした。実は高虎ファンでも在る不埒者(笑)ですので 「藤堂の血筋はホントは清い」ことを伝える挿話に出会えて嬉しいです。
【2007/10/07 22:35】| URL | 憐 #986d22aeac [ 編集 ]
Re:佳き話です(涙)。
いらっしゃいませ、憐さん
人はハンディがあればあるほど、「覚悟」の度合いが高まり、何処か高尚な部分が出るのでしょうね。
だからこそ、見る人が見ればその人の際だちが目にとまり、こうして評価され、本人もまたその恩義に報いようとなさるのでしょうね~。
いい話です(涙)

藤堂家のお話しにはいい話が多いですね。
やはり上に立つ人の行いが影響されるのでしょうか。
当時は主君をコロコロ変えると陰口を叩かれていたようですが、彼の行動は時勢を読んで進む起業家のようなイメージが漂います。

余談ですが、以前、京都・南禅寺の三門(重文)公開に訪れた時に、この三門内に藤堂高虎の像が安置されていたのを見ました。
現在の三門は、大阪夏の陣で討死した者への慰霊の為にこの門を寄進したと言われているのでそれで安置されているのでしょうね。
三重では「タカトラ」と言うキャラになっているとか(笑)
【2007/10/08 13:04】


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