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【2024/04/20 23:19 】 |
夢をみました。
http://garuda.blog.shinobi.jp/Entry/185/

ここで書いたように、思っている事は書く事にします。

夢を見ました。
手や鞄に一杯写真を持った娘が、「もう疲れたから私も何処かへ旅行したい」と言いました。

娘は想い出が詰まった自分の写真を、いつまでも離せずに苦しんでいると理解しました。

思わず私は言ったんです。
「忘れなさい。そんなもの全部捨てて、親兄弟、友達も全部、あなたが体験した全ての思いでを全部捨てる事が浄化するという事だから」と。

その後、「私は輪廻転生を心から信じている。だから、あなたは早く浄化して、もう一度生まれてきて欲しい。私はあなたとどうしてももう一度会いたいのだから」と、付け加えました。

そして目が覚めたのです。

それは同時に私にも言える事だと解っています。
全て捨て去らねば心は救われない。
禅宗で「仏祖を切り捨てる」と言うような内容があるとの事です。
仏や先祖に捕らわれている間は「大悟」、つまり究極の悟りは得られないのだと言う意味なのだそうです。

そんな事は重々解っている事です。
でも私、親なんです。

あの子が本当に浄化出来たと解るまで、私はそれを出来ない。
私がそれをすれば寂しがるのではないかと思えて仕方がない。

切なる願いは娘の浄化。

それを確認する手だてもなく、全うして常世に旅立った娘ではないだけに、後悔しているだろうし、未練も残っているだろう。
常にそれが私を落ち込ませます。

自らの手で命を絶つという行為は、結局、守りたい人を生き地獄にたたき込むという行為だという事を、娘は知りよしもなかったんですね。

己一つであれば、いくらでも精進し、どう生きていくのが良いのか出来るけれど、娘の成仏を第一としてしまった私に、歩む事を止めさせてしまいました。

病弱だった娘を必死で育ててきた年月は「夢」だったのでしょうか。
心の病に一緒に取り組み、飽きるほど話し合っていた毎日は「夢」だったのでしょうか。
「生きている事がみんなの迷惑になるから」と勝手に結論づけて先に逝ってしまった時、どうしようもない無情さを抱え込んでしまって、もう、何処にも抜けられない状態になってしまいました。

同じような境遇の人はこの世に多いと思います。
みんな、そんな重責を背負って、答えを見つける事も出来ず、己に終着駅が見えた時やっと解放されるのだろうと、先人の言葉で理解しました。

以前にも同じような内容を書いていたとは思うのですが、実際、前に進めません(苦笑)
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【2008/11/06 12:37 】 | 偲ぶ
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