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智に働けば角が立つ
情に棹せば流される 意地を通せば窮屈だ 兎角にこの世は住みにくい 夏目漱石の「草枕」の冒頭ですが、人は一生を掛けてこれを読み解き、最後に「己を許せる」許容量というのを養っていくものです。 娘は最期の4年で全てをジェットコースターのように知り、理解し、後悔し、なんとか分かろうと努力し、最期は「若さ」というキャパの狭さに負けてしまい壮絶な死に方をしてしまったわけです。 人は人によって傷つき、堕ちて行くのですが、でも、心を癒すのに動物でも旅行でも、穏やかな風景でも本の中の文章でも無い事を気づけなかった。 人は人によって翻弄されてしまうものですが、人でしか本当に心は癒されないものです。 今から思えばどうしてあの子に必要以上に関わり、時間を割き、いつもどうしてこんなにも不安な想いを募らせていたのか・・・。 どうしようもない「運命」という歯車に乗ってしまった所為だったのかも知れません。 意識など全くなかったのですが「時間がない」と必死で時間と戦っていたようにも思います。 西国巡りもゆっくりと行けばいいのに何故か寸暇を惜しんで参りきったのは、この所為だったのでしょうか・・・。 その証でもある集めた散華を1枚の色紙にまとめて仕上がったって来たのは彼女の死後でした。 百箇日を終えました。 そしてその時納骨も済ませました。 この日が来るまで精神的に不安定で少しの事で泣きだしていたのですが、直前になり漠然と「悲しむ事はないのだ」と思ったのです。 彼女はこれで自由になれるのだと。 魂と言うのは留まる事のないもので、墓に入るという事は「単に遺骨の置き場所に置いただけ」でそこが彼女の家になったわけではないのだと気付いたのです。 家からの呪縛から解き放たれ「自由」に好きなところに行けるのだと分かったんです。 そんな風に思うとスッと心が軽くなり、彼女の遺影に「良かったね。幸せになってね」と呟きました。 かねてより約束していた娘の彼氏が東京から来てくれました。 まだ辛そうでなんと言えばいいのか分からず、私は今まで思っていた様々な事をゆっくりと話して聞かせていました。彼は娘に贈った指輪をはめたままでその指輪に触れながら静かに泣いていました。 東京へ戻る直前にメールを貰い、「家族の一員のように扱って貰えた事に感謝している」と書き、最後に「彼女を幸せにしてあげられなかった事を許して下さい」と書いていました。 それが悲しくて申し訳なくて・・・。 だから 「最期に娘があなたという人を選んだ事を誇りに思っているのですから謝らないで下さい」とメールしました。 そしたら 「自分も○○○を好きになった事を誇りに思います。彼女の事を未だにグズグズと引きずっていますが、この想いはマイナスではなく自分にとってはプラスになっていて、きっとあいつが悔しいと思うくらいいい男になって見せます」と書いてきてくれました。 ベタだなぁ~と思ったんですが私、嬉しくて泣いていました。 娘が生きていた事は無駄では無かったのだと心が癒されました。 あの子が残していった様々な言葉や経験。 今では大事な遺産なのだと感じています。 いない事に慣れても死んだ事にはまだまだ慣れないのですけどね・・・・。 PR |
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私、実は漱石フリークなので、この冒頭の言葉を拝見した時に、少し驚きました。
せめてもの私の気持ちですが、同じ漱石のあまり有名ではないですが、大好きな短編小説「趣味の遺伝」の最後の部分を、ここに記したいと思います。 「余は色の黒い将軍を見た。婆さんがぶら下がる軍曹を見た。ワーと云う歓迎の声を聞いた。そうして涙を流した。浩さんは塹壕へ飛び込んだきり上って来ない。誰も浩さんを迎に出たものはない。天下に浩さんの事を思っているものはこの御母さんとこの御嬢さんばかりであろう。余はこの両人の睦まじき様を目撃するたびに、将軍を見た時よりも、軍曹を見た時よりも、清き涼しき涙を流す。博士は何も知らぬらしい。」 Re:お疲れ様でした。
夏目漱石は実はあまり読んだ事がないのですが、この冒頭の文章は子供の頃から知っていて、ずっと心の中にあったものでした。
ふと、思い出してしまったのですよ。 小説からの引用ありがとうございました。 心にしみました。 |
garudaが感謝するの?
Re:garudaが感
そう
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お邪魔致します。
とても素晴らしい男性を愛した娘さん、 彼の言葉に光をみいだします。 彼女の生きた証がしっかりとありますね。
【2008/07/03 18:18】| | レオ #9379e4adbc [ 編集 ]
Re:無題
ありがとうございます。
彼も少しずつではありますが前向きに生きていってくれているようで、感謝しております。 良い出会いというのを「邂逅」と仏教用語では表現するそうです。(本来は思いかけずにあうと言ういみなのだそうですが) まさにそうだったのかも知れません。 彼には色んな意味で癒されました。 同じ思いを分かり合えるというか・・・。 本当に彼には幸せになって欲しいと心から願っています。 |
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