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あの寒さはなんだったのかと思う程、本日は暖かい、と言うか、冬着で行くと失敗したと思えるほどの陽気でした。
堺の町をふらりとレンタサイクルで走ってみました。 あまり行かない地域だったので面白かったですね~。 やはり最初はここ、「南宗寺」 ここは1526年(*1)元々後に京都大徳寺の住職になった古嶽宗亘が小さな院を「南宗庵」と改名したのが始まりでして、就任終了後ここにまた戻られたそうです。 正式名は「臨済宗大徳寺派 龍興山 南宗寺」と言うのだそうです。一口に言えば禅寺ですね。 戦国関係で箇条書きにすると、 ○三好家(*2)の代々のお墓がある。 ○千利休の供養塔がある。 ○家康のお墓がある。 と言うお寺です。 「家康のお墓?」と思われるでしょ?まぁ、結構最近では有名な話なのでご存知の方も多いでしょうが、「大阪夏の陣」で後藤又兵衛により槍で籠ごと突かれているんですよね~。これは事実のようです。 その時に怪我だけだったと言うのが歴史上のお話ですが、「家康がその時に死んでいる」と言う話もありまして、完全否定の出来ないものがあったりします。 「まさか~」と思われるでしょうが、ここに2代将軍と3代将軍が来ているんですよ。 わざわざ江戸から堺までですよ? よほどでないと来ないと思いますよね~。 着た証ですね。 これ、御茶室ですが二階建てなんですよ。 下は茶室ですが二階は展望台のようになっており、堺の街を見渡せたんですって。ちなみにこの建物はこのお寺、最古の建物だそうです。 講談師・旭堂南陵さんは「絶対にこの時、家康は死んでいる」派、なんですって(笑) これは「大阪夏の陣」で堺の町は焼けたのですが、その時残った瓦を使った壁なんだそうです。 ご覧の通り、井戸しか残っていません。実際にはあったらしいんですよ。利休は塩乾業の商家に生まれ、その屋敷がここにあったそうで、江戸期に入るとここの加賀屋太郎兵衛が利休を偲び茶室を建立。その後上記の南宗寺に移築されましたが空襲によって焼失、現在は昭和30年に再建された茶室が存在します。 この井戸は大徳寺の山門が修理された折、その廃材を貰って建てられたもので江戸期のものです。まぁ、大徳寺の廃材ですので木そのものは秀吉の時代のものなんでしょうね。もっと昔かしら・・・。 正しくは「日蓮宗 廣普山 妙國寺」と言い、上記の三好4兄弟の一人、三好之康が建てたお寺です。 元、皇室勅願寺だったそうで、お堂の扉には菊と桐の御紋がついております。 中は撮影禁止なので写真はありませんが、実はここに樹齢1100年以上と言うソテツの木があります。 そりゃもう大木ですが、上にあまり大きくならずソテツって横に張るんですね~。 しかも1メーター育つのに100年必要なんだそうで、ビックリです(汗)今回初めて知ったんですが、ソテツって中が空洞なんですよ。変な話ですが重そうに見えるけど、持ち上げると軽いのかしらって話してました(笑) で、そのソテツ、何が戦国かと申しますとね、織田信長が安土城を作った折、このソテツを気に入り、寺院の反対を無視して安土に持って帰り移植したんですって。 処が、夜な夜な泣き叫んだんだそうです。「堺に帰せ~!」って。あんまり気色悪いので信長が一刀両断で枝を切り落としたんですが、切り落とした時中から血が吹き出たと言う話が残っております。実際には吸い取った水分が噴出した時、化学反応が起こり、赤く染まったのではないかと言う話なんですが・・・。 気味が悪いと信長は、結局このソテツをここへ戻したそうなんですが、戻された無残なソテツを憐れみ、日珖上人が毎晩法華経を唱え、ソテツの蘇生を願ったそうです。そしてある晩、夢枕に老人の顔を持つ大蛇のようなものが現れ、上人に感謝しこの街を守護すると約束したそうです。 その怪しげなものこそ「龍神」だったそうで、ソテツの足元には何故か可愛らしい(笑)龍神像があり、このソテツの前には「徳正堂」が建てられ龍神を祀っているそうです。 まぁ、それまでにゆっくりと回っていたので時間が採られてしまいレンタサイクルでしたので4時半には戻らなければダメだというので回る場所は限られてました(苦笑) えっとこれは「大野道犬冶胤」のお墓です。大野三兄弟の三男坊で秀吉の側近だった人ですね。次兄の治長は「大阪の陣」の時淀君と秀頼の側近として傍におり、噂では秀頼の実の父親ではなかったのかと言われていた人です。 この道犬は水軍として活躍しておりましたが、「大阪夏の陣」で大敗をし、京都まで逃れたのですが残党狩りにあい、ここ堺の町で火あぶりの刑にされたんです。当時は豊臣方は逆賊とされていたのですが後に「豊臣に忠義を貫いた武士」とされ堺の商人の手によって処刑のあった場所で供養塔が建てられました。その供養塔がここ「月蔵寺」に移転されたのです。 1495年、京都・頂妙寺の末寺として創建されたお寺です。 この山門は1850年に再再建されたもので、薬医門の形を取っており、山門の上には「司馬温公の瓶割」(*3)を題材にされた珍しい彫刻があります。日光東照宮にも同じ題材の彫刻がありますね。 帰り道にこんなものを見つけました。 ご覧の通り、道路側が家だったようですね。 まぁ、このように碁盤の目に町が変わったのは江戸期ですから、戦国時代にはここは道路ではなく屋敷があったと言う事ですね。 しかしまさか道路側に屋敷があるとは思わなかったので見落としてました(笑) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー *1 戦国時代です。年表上「戦国時代」とはだいたい応仁の乱(1467年)より室町幕府が倒される(1573年)を言うのだそうです。 その後は俗に「安土桃山時代」と呼ばれる事もあるそうですね。ですので、この時代の征夷大将軍は足利12代将軍・足利義晴の時代だそうです。 *2 三好氏 戦国大名で堺の町を一大貿易港として制定した人で、戦国時代初の天下人と呼ばれた家系でした。元々は四国の人なんですけどね。 詳しくはウィキペディアで・・・。→クリック *3 司馬温公が子供の頃、大きな水瓶に落ちた友達を助けるために、石で瓶を割りました。大切な瓶を割ったので叱られることを覚悟していましたが、父親は温公をほめて、改めて命の大切さを教えたと言います。 続きに今回寄った昼食場所と和喫茶のお話を・・・。 ここなんですが、一見、なんだここと言う感じのお店ですけどね、しかし、ものすごく繁盛しているんですよ。 知る人ぞ知ると言うお店なんでしょうか。 おかず角皿350円と400円 丸皿200円と250円と言うようにおかずが小鉢に何種類も盛られていて、それをトレイに好みのものを乗せ、後はご飯をよそってもらい食べると言う、昔ながらの和食屋さん。お魚が美味しいんですよ~。焼き魚を出してくれるお店は結構見つける事が出来ません。味も美味しくて大満足でした。 http://r.tabelog.com/osaka/A2705/A270501/27003060/ ここは「黄金の哲学」と言うカステラが有名でして、モンドセレクションで2回も金賞を取っているカステラです。 程良い甘さのカステラはもっちりとして上質の味がします。 ま、それを食べたのは娘の方で私は季節限定のこのパンプキンパイを頂いたんですが(笑) 喫茶室から反正天皇陵が見えます。っていうか、この古墳の隣にこのお店があるんですよ。見えて当然です(笑)天井が高いので解放感がある喫茶室でしたね。 http://www.kokyuan.jp/ PR |
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