1日だけ大雨だった6日の金曜日、なぜか「この日に絶対に行きたい」と言い切った娘の為に大和郡山まで行ってまいりました。
郡山城のある大和郡山、そこの昔の城主だった秀吉の弟、秀長さんに最近娘がはまっている所為(苦笑)
郡山のそばにいる親戚に以前「ここを城主は誰?」と質問したところ、
「織田信長」という返事が(笑)
すかさず他の親戚が「秀吉」だと訂正。
どっちも関係はあるけど間違っています。
えてして地元というものはそういうものでしょう(笑)
郡山城は奈良の覇権を巡って、あの東大寺を焼いたと言う事で悪名名高くなった松永秀久と言う武将と闘っていた筒井順慶と言う戦国武将が、織田信長の力により奈良を獲得し、明智光秀の指揮のもと城郭を建てたのが始まりです。
筒井順慶と言えば嶋左近(笑)→クリック
彼の上司だった人です。
その後、織田信長がその光秀に暗殺され(本能寺の変)豊臣秀吉が天下を獲りますが、その頃にここ郡山城の城主を務めたのが豊臣秀長でした。
そして徳川の世になった頃、ここは水野、徳川、本多と城主を変えていきましたが、1724年(享保9年)に、あの犬公方と呼ばれた五代将軍・綱吉の側用人をしていた柳沢吉保の子、吉里が入城しました。
その後、明治までここは柳沢家が統治していったのです。
その頃、この郡山は金魚の養殖地として名前を知られていきます。
なんでも吉里が金魚を持ち込み、それが人気を経て養殖という発展を遂げたのだそうです。
「城下町マップ」の説明を引用しますと、
710年(和銅3年)に藤原京から平城京に移され、都の南京終には羅城門が存在し、この都の郊外には大宮人の為の保養所「薬園宮」がありました。
それは東大寺領清澄庄に属し、寺領「郡山」と呼ばれていたそうで、それが名前の由来だそうです。
さて、話を元に戻し(苦笑)、秀長のお話を少し。
一言でいえば名君でした。
三重の「しろもちくん」のモデルともいわれる(苦笑)藤堂高虎の主君でもありました。藤堂家のお話と言えばこんなこともありましたね~→クリック
秀長についての資料があまり無いそうで、伝承が殆どらしいのですが、異父兄弟とも実の兄弟とも言われ、秀吉にとって唯一の血を分けた男の兄弟であることは確かだそうです。
秀長は秀吉ともども百姓の出で、本人も武士になることなど露とも考えていなかったそうです。秀吉は秀長の幼いころにすでに家を飛び出しており、百姓家の唯一の男子として百姓家を切り盛りしていたそうです。
しかしながら秀吉が信長に仕え、秀吉の要望で補佐役として武士となりました。元々表立ったことが好きではなかった性分らしく、徹底して補佐に回っていたそうです。
穏やかな暮らしをしていた秀長でしたが、秀吉の強引ともいえる勧誘で武士になりますが、武士と言えばその当時戦は避けて通れないものでした。
戦など経験していなかった秀長でしたが、信長の鵜沼城攻めの時、秀吉あわやという場面で無我夢中デビューを果たします。
その時秀吉は「地獄に仏とはこのことか」と述懐したそうです。
彼の名前が信長にも浸透していったのは、美濃(岐阜)の斉藤氏の居城・稲葉山城攻めの時でした。
難攻不落な稲葉山城に手を焼いていた信長は秀吉の作戦に乗じます。
その時、水門から場内に潜入し、信長軍を招き入れたのは秀長率いる蜂須賀小六以下部下7人でした。
蜂須賀小六と言えば秀吉の良き部下と言うイメージですが、実は彼が秀吉軍に入ったきっかけは秀長だったそうです。
美濃攻略の拠点として信長は墨俣に城を築こうと考えていました。しかしながら敵軍の妨害などがあって難攻しておりました。そこで秀吉は川を使って築城しようと考えていたため、近辺の水利に通じていた川並衆の協力が必須となったのでした。
その川並衆を束ねていたのが蜂須賀小六。
彼を説得に向かった秀吉でしたが、敵地に身をさらして城を建てるという危険極まりないミッションになかなか協力するとは言わなかったそうです。
言葉巧みな秀吉が困っているのを横で見ていた秀長でしたが、ポツリポツリと「このたび兄者は、墨俣築城が出きなければ命もないものと覚悟を決めております・・・」と話し始めます。それを黙って聞いていた小六は、「墨俣のこと、お引き受けいたします」と承諾したそうです。
言葉巧みな秀吉の言葉ではなく、秀長の誠実さにうなずいたと言われています。こうして出来たのが世に言う「墨俣の一夜城」でした。
そんな秀長ですが、中国攻めの時、毛利との戦いで銀山に目をつけ但馬を自ら大将となって攻め落とします。その時決して力を誇らず、地元の国侍の領地をそのまま統治させるなどの寛容な対処をしたため、国侍たちはこぞって秀長に帰順したと言われています。その数は3000人余りだと言い伝えられています。この時秀長は但馬10万5000石を拝領することになったのでした。
書き出せばいろいろあるのですが、とにかく、秀長はそれなりに大将としての器もあり、万民を理解し、彼の誠実さに帰順する武士(高虎もその一人)も多かった人でした。あの千利休も彼がいたからこそ秀吉の傍に仕えていられたという話も残っています。
当時の記録として有名な宣教師ルイス・フロイスの「日本史」にも彼の人柄の良さ、礼儀の正しさの記述があり、彼の評価は海外でも高かったようです。
そんな秀長も病に倒れ、秀吉よりも先にこの世を去ります。
享年51歳。若すぎる死でした。
韓国出兵を最後まで反対していたのも秀長だったそうです。
彼の死後、秀吉は羅針盤を失ったかのようにさまざまな人が離れ、滅亡へと進んでいくのでした。
そんな秀長の最期が、この大和郡山だったわけです。
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