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【2024/04/24 16:54 】 |
大坂夏の陣と幸村の娘

osakagaku2.jpg産経新聞にも掲載されていました。

5月3日 大阪文学振興会主催(HP)の催し物です。
大阪の文学や歴史を市民に勉強してもらおうと言う会なんです。
事務所が一心寺内にあるので、
一心寺がバックアップしているのかもしれませんね。

osakagaku1.jpgさてさて内容は、
まずは「講談師、見てきたようなウソをつき」と申しますが、なかなかどうして、そのなかにも本当がいくつも入っており、今回のお題目「幸村の娘」と言うのは、
真田幸村の娘、梅さんの事。
演ずるは旭堂南陵師匠。
写真は会場の一心寺千体佛像堂。

幸村の娘は夏の陣の時、敵方であるはずの伊達政宗の家臣、片倉小十郎に託され、小十郎の後妻となっております。
この小十郎は、息子の方です。
実は片倉家は当主が名前を継いでいたのか、その後の話は知らないのですが、このときはそうだったようで、伊達政宗の片腕とされていた小十郎ではなくその息子、
小十郎重長に託されたようです。
そして奥さんが亡くなられた後、梅さんは片倉家の嫁になり子供が生まれています。

その場面の講談でした。

その講談を受けて歴史学者の北川央さん。
「普段は南陵師匠のコケ落としをするのですが、今日はなぜかホローに回っております」とおっしゃって、「実話が混ざっている」とおっしゃっておりました(笑)
なんでもいつも二人は対で講演をおこなっていらっしゃるようで、そのような事になっているようです。

北川さんが担当したお話は、秀頼と彼の子供のお話。
資料を読みながらの本格的な歴史勉強をしておりました。

さて、その話をザッとお付き合いください。

osakagaku3.jpg大坂夏の陣、豊臣秀頼は大阪城で自害いたしました。
これが通説です。
その場所が何処であったか。
大阪城では山里曲輪(やまざとぐるわ)で亡くなったと言う説を取り、写真のような石碑が建てられておりますが、北川さん曰く、「そんなものどこか解りませんから、こんな石碑を建てるのは実は反対でした」とのこと。



*家康の話が書かれている『駿府記』では家康の側近曰く「帯曲輪(おびくるわ)で自害した。
*南禅寺の僧の日記、『本光国師日記』では「唐物蔵」で自害した。
*伊達政宗の書状では「下の丸の蔵」で自害した。
*ひこにゃんで有名な井伊家の本『井伊年譜』では「東腰郭シユサン櫓」で自害
*藤堂高虎で有名な『藤堂家譜』では山里曲輪で自害。
*『土屋知貞私記』では「千貫櫓」で自害。
*『明良洪範』では「蘆田曲輪」で自害
*『武功雑記』では「玉造ノ櫓」で自害
とまぁ、どれもこれもバラバラで、
みんなまた聞きしているのか適当な事を書いているのか、そんなに場所は重要ではなかったのか、共通しているのは自害と言うことだけ(苦笑)

しかしこの自害と言うお話も実は生存説もその当時から流れていたのでもはやあやふや(苦笑)

わらべ歌で「花の様なる秀頼様を、鬼のやうなる真田がつれて、退きものいたよ加護島へ」と歌われており、当時、平戸(九州)にあった東インド会社の商館長をしていたイギリス人のリチャード・コックスと言う人の日記に、
「1615年6月16日、秀頼さまは生存し、
大名の彼に加檐(かたん)するもの多しとの風聞あり、しかれども予は皆虚説なりと信ず」と書かれてありました。
この6月の16日ですが、当時日本は太陰暦を使っており、彼はイギリス人ですので太陽暦(現在使われている暦)を使用しているので日にちが違っていますが、夏の陣直後のお話です。
それからひと月後にはこの風聞を信じて徳川家が九州に大捜査網を引こうとし、当時から仲の悪かった九州・島津家と戦になりかけたという話に至っております。

他にも彼の生存説を促した書物は沢山あり、
信州松代・真田家でその真偽を確かめるべく検証し始めたらしいのですが、結局真実でもないけどまったくの嘘でもないので後世の人に頼むとか書いているんですよ(『先公実録』)

それもこれも、遺体が発見されなかったというからでしょうね。

さて、秀頼の子のお話。
子供は二人。側室との間に生まれた男の子と女の子がおりました。
男の子は国松と言う名前でわずか8歳で京都で処刑されております。
子供の処刑は皆の涙を誘ったようで、家康は非道だと噂が絶えなかったようです。女の子のほうは秀頼の正妻にして、家康の孫にあたる千姫の助命嘆願により助けられ、尼僧となって全うします。

これは周知の事実。

しかしもう一人居たことがわかっております。

しかも助かるはずのなかった男の子。
びっくりすることに、彼は徳川家の菩提寺、増上寺の僧として父、秀頼の菩提を弔い続けたという話が残っております。
彼は死ぬ間際に己の素性を明かしたと言うのです。
誰の手配で彼が徳川家に近い場所で生き続けたのでしょうね。
あまりにも哀れだと思ったので、内緒で連れ帰ったのでしょうか。
『続日本高僧伝』と言う書物の「求厭(きゅうえん)」と言う高僧のくだりに載っております。彼は80歳まで生きたようです。


そんな歴史勉強の後、
一心寺の長老、高口恭行さんと旭堂南陵さんと共にゾロゾロと(苦笑)歴史散歩をいたしました。
その写真が新聞に掲載されているのですね(笑)

osakagaku8.jpg一心寺に本多忠朝の御墓があるのは以前書いた気がしますがそれがこの写真。
一心寺は大坂夏の陣の頃、焼き払われております。
現在、一心寺の隣で工事がなされているのですが、その地層からその当時の地層が出てまいりまして、焼かれた跡が残っていたそうです。
ここが激戦区であったことがうかがわれます。
忠朝の軍は今の天王寺ステーションビルあたりで布陣していたようです。
そして、忠朝の軍の前には大坂方の毛利勝水の軍がにらみをきかしていたんです。
それが今の四天王寺庚申堂周辺。
そして茶臼山の真田幸村軍の前には徳川方の越前兵が待ち構えておりました。
そこが今の市大病院あたり。
越前兵と忠朝には共通の事がありまして、どちらも冬の陣での失態を家康に叱責されているのですよ。
ですので今度こそ手柄をあげると勇み足だったんですね。
東西がにらみ合っていた境界線と言うのが今の大阪環状線と符合するとか(笑)
内と外でにらみ合っていたようです。

地図→クリック 

長老曰く、「デモを思い出してください。安保の頃学生闘争がありましたでしょ?あのデモ隊も後ろから後ろから押されて前にいた者がジリジリと押し出されます。あれと一緒だと思いますよ。歩兵たちがジリジリと押し出されて前で戦う。そして前が倒れたらまた後ろの奴が前になって戦い始める」
なんだかサメの歯を思い出したのですが、そんな風だったんでしょうか。
TVとかでみるとね、ワーッて走りだすイメージがあったんですけど。

道順は
本多忠朝の墓→

osakagaku6.jpg安居天満宮→

osakagaku7.jpgここは幸村最期の地だと言われています。

osakagaku4.jpg谷の清水→

osakagaku9.jpg庚申堂→

四天王寺南大門→四天王寺中の門 そして解散。

終わったのは4時半でした。

osakagaku5.jpg説明をされる旭堂南陵師匠

 

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【2009/05/06 18:46 】 | 歴史 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
<<四天王寺で授戒 | ホーム | 予告だけ(苦笑)>>
有り難いご意見
う~ん、
なるほど・・・。私の知らない事ばっかりで(^^;;。さすがはガルダ様・・・。
でも、前にも書きましたけど、こうなるとほんとに、にっくき徳川・・・、ですねえ(苦笑)。
とはいえ、源義経のような風になってないのが、救い?ですかねえ。歴史は奥が深いですねえ。
【2009/05/07 01:32】| URL | MU!! #529676e961 [ 編集 ]
Re:う~ん、
>とはいえ、源義経のような風になってないのが、救い?ですかねえ。歴史は奥が深いですねえ。

ジンギス・ハーンになってと言うくだりでしょうか?

秀頼の末路は酷いもんです。飲んだくれて暴れていたとか・・・。
「おれは世が世なら、天皇にもなれたはずだったんだぞ」とクダを巻いていたかもしれません。だからこそ信憑性があったりもするんですね。実に人間的な逸話です。
【2009/05/09 08:33】


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