最近、娘の存在を(勘違いかもしれませんが)感じます。
そしてずっと知る事が出来ない事を延々また考えています。
「死んだら何処へ行くんだろう」
人類の永遠のテーマのような気がしますね。
仏教に限らず、全ての宗教は生きて行く為の智慧を教えてくれるものだと考えています。しかしながら大事な人を亡くしたことで、その人の事が気になって仕方がない生き残った遺族の為に、仏教などはその後、いろんな風習を読み解いてきたわけです。
天国地獄なんかもそうでしょう。
いったい誰が見てきたのだと思ってしまう程、いろんな情報が世界中にありますよね。
薬師寺の管主さんが機関誌で記述していたのですが、葬式や仏事は生きている人間の為の癒しの為にしているもののように思えると。
大事な人が亡くなると生きる気力を無くします。
生きていること自体に意味が無いように思えてくるからです。
出来れば先に行かしてしまった故人を追って自分も行きたいとすら思います。
葬儀や仏事は故人が何処へ行くかと示し、故人との別れを遺族に解らせるため、あるいは心を穏やかにするためにあるのなら、それは意味のある風習ではないかと書かれてありました。
そうだと思います。
「もう、居ないのだよ」と気づくのは凄く時間が必要です。
そのために法要をするのだなと思います。
笑っちゃいますね。こんなカラクリを知ってしまうと私が求めている答えが見つからない(苦笑)
解っていながら仏にすがるのは、ひとえに故人の考えや性格は死んだ後も変わっていないからだと信じているからです。
お墓や仏壇に居るはずもないのにそこで話しかけるのは、そこが死者との会話場所であると故人も理解しているからで、どこかで聞いているのではないかと思うからです。
死者の為にある枕経だのの内容は、はっきり言って生き残った者の為のお教です。こんなものを読んで死者が喜ぶのか?と疑問に思いますが、先ほども言ったように生前、お教はありがたいものであると信じていた故人にとっては、お教をあげてもらう事が安らぐからだと理解しているからです。
そして死んでもそうやってお寺さんに特別に頼み、自分を気にかけてくれる事を喜んでいるだろうと思うからです。
忘れられるのが一番さみしいだろうなと考えています。
法要は縁者が集まって故人の思い出話をすることで、きっとどこかでその話に参加しているだろうと思うからしています。
行事化しないとみんな集まりませんからね~(苦笑)
たいていの経典は生きているものが考えた「死」とは何かですが、私が知っている中で一つだけ死者から目線のものがあります。
経典ではなく「詩」です。
不思議な「詩」です。
本当に死者が書いたのではないかとさえ思える「詩」です。
今や、世界中の人が知っているのではないかと思う「詩」です。
タイトルは「千の風になって」です。
a thousand wind
Do not stand at my grave and weep
I am not there, I do not sleep.
I am a thousand winds that blow.
I am the diamond glints on snow.
I am the sunlight on ripened grain.
I am the gentle autumn's rain.
When you awaken in the morning's hush,
I am the swift uplifting rush
Of quiet birds in circled flight.
I am the soft stars that shine at night.
Do not stand at my grave and cry
I am not there, I did not die.
原文はこちらです。
この「詩」はいつ頃、何処で誰が書いたのか分かっていません。
解っていないのに世界中で古くから読み継がれてきた「詩」です。
以前TVで追跡調査をしていて、アーリーアメリカンで古くから語り継がれてきたというところまでたどり着いていました。
自然の中で自然と共に生きてきた種族ですので、この歌は良く理解できます。しかし確定したわけではないようですが・・・。
日本で有名なのはこれを新井満氏が訳し、秋川さんの歌声で全国的に知られましたね。
私の御墓の前で泣かないでください
そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています。
秋には光になって、畑にふりそそぐ
冬にはダイヤのようにきらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になってあなたを見守る
私の御墓の前で泣かないでください。
そこに私はいません、死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています。
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
この歌に歌われているように「風」で知らせると言う現象は度々感じます。
横切ると風が走り、お線香の香りを連れてくるんです。
それは深夜でもま昼でも変わらず同じ事が起きます。
だからつい生前の名前で呼びかけてしまいます(苦笑)
はたから見たら変な人ですよね(苦笑)
そんな日は決まって下の娘が死んだ娘の夢を見るようで、戻ってきているのは確かなんだなと思ってしまいます。
本当に死んだら何処に居るんでしょう。
今、「納棺夫日記」と言う本を読んでいます。
あの「おくりびと」の原作本ですね。
映画の方が上映されているとき、タイムリーでとても見る事が出来ず、いまだに見ていません。
しかし勧められて読んでいると、日本の美しい原風景の自然描写が素晴らしい作品なのにその内容は一言一言が重く、1ページ読むごとに考え込んでしまうもので、凄く短い短編なのになかなか先に進めません(苦笑)
ですので全体の感想はまだ書けないのですが、途中でも「日本人とはなんなのか」とまで考えてしまう内容だと言えます。
「死ぬ」とはどういう事なのか、「生きている」とはなんなのか。
風習は人を救うのか、あるいはダメにするのか。
どの哲学書よりもストレートに響いてきます。
死んだらあの世とやらに行くのだろうか。
そんな風に思っていました。
しかし、無意識なのか意識的なのか知りませんが「どこかに行くらしい」事はしっています。
以前にも書きましたが、娘が死んですぐの時、妙な夢を見ました。
ローカル線で屋根のない小さな駅で停車している電車も1両車両なのに、その小さな駅に信じられないくらいの人が居て、その1両車両も通勤電車のように満員になっていました。
その電車に乗らなければ次がずっと来ないと知っていたので慌てて私と娘二人と降りて行ったのに、乗ったのは死んだ娘だけでした。
娘は暗い顔をしたままその満員の電車の座席に座っており、こちらをチラリとも見てくれなかったのです。
無情にも目の前でドアが閉まり娘と共に電車は出発してしまい、私と下の娘がそれを見送っていたんです。
でも私はちっとも心配していなくて、下の娘に私は話していました。
「あの子なら向こうで待っててくれるよ」と。
向こうって何処だったんでしょう。
そして先日、いわゆる臨死体験的な夢を見ました。
普段は絶対行く事の出来ない場所に行けると言う話を聞き、私はぜひともいってみたいと参加します。すこし遅れ気味にその列の最後につき、先には知り合いが居るから安心だと心で感じており、二重三重も重なりあった重い扉が開かれ私は建物の裏から外に出ました。
草も木もない殺伐とした風景の中をひたすら歩き、斜面に差し掛かった時、右も左もわからないほどの暗闇になったんです。
しかしすかさず誰かが私の左右に居て腕を取ってくれて蛇行する山道を歩み始めたんです。
足は何故か素足。
私は全く見えないあたりでも支えてくれる人が居ることで安心しており、闇の中で見える夜光虫のような青白い光が美しいと感じていました。
そのうちあたりがフッと明るくなったのですが、周囲はまるで鍾乳洞の洞窟のような景色で、赤っぽい光に照らされていました。
私を導いてくれている人は誰なのかと確認した時、何故かラマ僧(苦笑)左右に居る人はラマ僧のような衣装を着たお坊様だったんですよ。
その時目が覚めたんです。
っていうか、起こされたようです。
お昼間の事でいつ自分が眠ったのかわからない状態でした。
そして起こしたのは我が家の黒猫。
私の体の上に乗って息苦しくなって起きました。
この猫は死んだ娘が家に連れてきた猫なんですよ。
もしかして生前「猫になりたい」と言っていた娘が猫になって私を連れ戻したのかもしれません。
あのまま先へ行ったら、ひょっとしてひょっとしたら・・・って事になっていたかもです(苦笑)
そんなことで、死ねばどこかに行くらしいと知っていても、そこが何処なのか解りません。
死ねば「無」になると言う話ですが、それはなんだか違う気もするんですよね。
全くの「無」にはなっていない気がします。
それとも数々の現象は私が勝手に引き起こした事なんでしょうかね~。
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