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TVで「今年も後10日」なんて言われるとめちゃくちゃ焦ります。
やはり今年もギリギリまで掃除していそうです(汗) キッチンの掃除を終えたら、膝に無理な負担がかかっていたようで、昼食の後少し休んで、散歩に出かけました。 今日は暖かかったからね~。 膝の調子も平面を歩くとマシになります。 折角だからと、ちょっと1614年に起きた「大阪冬の陣」検証をしてみました(笑) 大阪冬の陣についての詳しい内容はウィキペディアで→● あちこちのサイトで「真田丸」は何処にあったのかと書かれていますが、私なりに考えてみました。 これは冬の陣の配置図です。 真ん中より少し下にあるのが「真田丸」 あの真田幸村が陣を張っていた場所ですね。 中央の東西に描かれているのは「空堀」 堀があるだけで水が流れていない所です。 天守閣の右にあるのが「猫間川」です。 これは途中で無くなっています。空堀の先端とくっついていて、これが最初から川だったか否かは分かりません。もしかして人口的に作ったものかも知れません。 此川は幕末になると1本の川となり、更にこの地図で言うと南に下っていきます。 一番左の川は「平野川」と書かれています。 この平野川と合流させたのかも知れません。 この地図は文久3年のものです。幕末ですね。 多分、この地図の所為で「真田丸」は「真田山」にあったのだから、三光神社ではなく、今の明星学園の場所にあったのだろうと思われているようですね。 現在の地図はこちら→● 「心眼寺」と言うお寺は江戸時代に真田一族の菩提を弔う為に建てられたお寺です。 この寺の位置からすればお解りの様にこの幕末に描かれた地図では「明星学園」が「真田山」と表記されています。 しかし、ここだけだと小さいんです。 上記の地図から検証すればもう少し大きな出城に思えます。 「心眼寺」は真田丸跡地に建てられたと聞きます。 ですので、ここは「真田丸内」だと思われます。 余談ですが、ここのお寺の門には寺紋として幸村の「六文銭」が彫られてあります。 それともう一つ、標高がこの辺りで一番高いと思われる場所は明星学園の場所で言えば、現在の地図上では南西。餌差町と言われる場所です。円珠庵のある場所です。 しかし、この円珠庵、別名「鎌八幡」と呼ばれている場所でして、幸村が冬の陣必勝祈願を立てたお寺としても有名です。 (因みに、国文学者・契沖のお墓があることでも有名です) で、このお寺を巻き込んで出城は造らないだろうとか思ったんです。 そんなことで実はこの間、某大型書店に参りまして、立ち見を(苦笑) 上記の古地図は雑誌の付録として私が所持しているものですが、もっと古い時代の大阪の地図を見たくて行きました。 もっとも古いもので1700年初頭のものしか無く、地図も簡素なものでしたが、そこに描かれていたのは「真田山」は単独の小さな山ではなく、三光神社からこの幕末に描かれた真田山まで丘と言える丘陵地域になっていたことが分かりました。 三光神社の第一の勾配がこのくらいです。 本殿は更に上にあります。 同じ高さの位置に小学校があり、その側面を歩くと、 このくらいの高さになります。 しかし、この写真を写している場所も実は少し高い位置にありますので、下から来ると丘程度の高さはあると思いますね。 これは小学校正面の壁面。 学校自体が高い位置に建っていることが分かります。 この前の道路は「真田山の坂」と呼ばれている途中の場所でして、長い坂道がダラダラと続いてる場所です。 ですので、駅の高さからすれば比較的高い位置であることがここでも分かります。 真田丸は空堀で囲まれた出城です。 これは堀の高さだったのかなぁと・・・。 もっと深いとは思いますけどね。 と、言うことで、三光神社込みで、明星学園の真ん中辺り、そしてこの小学校を入れた大きさが、「真田丸」だったのではないかと思えるんですよね~。 PR |
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