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【2025/06/08 12:51 】 |
天気予報も外れて・・・。
atc.jpg

昨日の午後は良い御天気でいした。
家のメンテの為にここまで(南港ATC)まで来たんですが、成果もなく終わりました(苦笑)
府庁がここに来るか否かはわからないですが、「あそこに行けばいい。あそこならドンドン開発できる」と言い続けていた旦那が、実はここに来たのは初めてだった事が判明(爆)
ほんと、競馬と酒にしか足が向かない旦那なもので、自転車で来れる大阪城ももしかしたら数えるほどしか行った事が無いのではないかと思えます(笑)
でも、「サンフラワーってこっから出てたんか~。ワシ、乗ったわ~」とか申しておりましたので、来た事が無いと言うのはなかったかと思われます(苦笑)

今夜はここでジャズの演奏会があるようですが(リハーサルをしてました)残念ながら夜は予定があるのでここを立ち去りました。
時間があったらゆっくりと聞いていたい日でしたね。

そう言えば、近鉄百貨店がここにお店を出すんですね。
近鉄ATC店とか言うのだそうです。
府庁が来ると見通しての出店でしょうか。

話変わって、前々から食べてみたいと思っていたハンバーガーがあるんですよ。
で、今日、鶴橋に用事があって行ったついでに買ってきました。

いや~、うまい!
やはりうまいですわ~(笑)

その名も「鶴橋バーガー」
http://tsuruhashi.info/

お値段は500円台とお高いですが、パンも柔らかくて大満足でした。

また、買いに行こう(笑)





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【2009/11/15 17:45 】 | 大阪コラム | 有り難いご意見(2) | トラックバック()
堺の町を自転車で走りました。
あの寒さはなんだったのかと思う程、本日は暖かい、と言うか、冬着で行くと失敗したと思えるほどの陽気でした。
堺の町をふらりとレンタサイクルで走ってみました。
あまり行かない地域だったので面白かったですね~。

sakai1.jpgどうせ行くなら「夏の陣」関係の場所を回ろうと(さっすが戦国ヲタ)
やはり最初はここ、「南宗寺」
ここは1526年(*1)元々後に京都大徳寺の住職になった古嶽宗亘が小さな院を「南宗庵」と改名したのが始まりでして、就任終了後ここにまた戻られたそうです。
正式名は「臨済宗大徳寺派 龍興山 南宗寺」と言うのだそうです。一口に言えば禅寺ですね。
戦国関係で箇条書きにすると、
○三好家(*2)の代々のお墓がある。
○千利休の供養塔がある。
○家康のお墓がある。
と言うお寺です。

「家康のお墓?」と思われるでしょ?まぁ、結構最近では有名な話なのでご存知の方も多いでしょうが、「大阪夏の陣」で後藤又兵衛により槍で籠ごと突かれているんですよね~。これは事実のようです。
その時に怪我だけだったと言うのが歴史上のお話ですが、「家康がその時に死んでいる」と言う話もありまして、完全否定の出来ないものがあったりします。

sakai2.jpgこちらがそのお墓。
「まさか~」と思われるでしょうが、ここに2代将軍と3代将軍が来ているんですよ。
わざわざ江戸から堺までですよ?
よほどでないと来ないと思いますよね~。


sakai4.jpg中は非公開ですがこの「坐雲亭」には2代・3代将軍直筆の板額が存在しております。
着た証ですね。
これ、御茶室ですが二階建てなんですよ。
下は茶室ですが二階は展望台のようになっており、堺の街を見渡せたんですって。ちなみにこの建物はこのお寺、最古の建物だそうです。

sakai3.jpgそしてこれが水戸藩士が建てた家康のお墓ですが、東照宮が建っていたそうです。この写真の奥が本来の家康のお墓がある場所です。しかし東照宮は空襲で焼けまして、現在あるこの大きなお墓は松下幸之助等によって再建されました。おおっぴらに家康の墓とは言えないのか「東照宮跡碑」と説明されていましたが、石にはちゃんと「徳川家康墓」と刻まれていました。

講談師・旭堂南陵さんは「絶対にこの時、家康は死んでいる」派、なんですって(笑)

sakai8.jpg余談ですがここの壁は一面瓦が埋め込まれております。
これは「大阪夏の陣」で堺の町は焼けたのですが、その時残った瓦を使った壁なんだそうです。








sakai5.jpg次に向かったのはここ、「千利休屋敷跡」
ご覧の通り、井戸しか残っていません。実際にはあったらしいんですよ。利休は塩乾業の商家に生まれ、その屋敷がここにあったそうで、江戸期に入るとここの加賀屋太郎兵衛が利休を偲び茶室を建立。その後上記の南宗寺に移築されましたが空襲によって焼失、現在は昭和30年に再建された茶室が存在します。
この井戸は大徳寺の山門が修理された折、その廃材を貰って建てられたもので江戸期のものです。まぁ、大徳寺の廃材ですので木そのものは秀吉の時代のものなんでしょうね。もっと昔かしら・・・。

sakai7.jpgそしてこちら、妙國寺です。
正しくは「日蓮宗 廣普山 妙國寺」と言い、上記の三好4兄弟の一人、三好之康が建てたお寺です。
元、皇室勅願寺だったそうで、お堂の扉には菊と桐の御紋がついております。
中は撮影禁止なので写真はありませんが、実はここに樹齢1100年以上と言うソテツの木があります。
そりゃもう大木ですが、上にあまり大きくならずソテツって横に張るんですね~。
しかも1メーター育つのに100年必要なんだそうで、ビックリです(汗)今回初めて知ったんですが、ソテツって中が空洞なんですよ。変な話ですが重そうに見えるけど、持ち上げると軽いのかしらって話してました(笑)
で、そのソテツ、何が戦国かと申しますとね、織田信長が安土城を作った折、このソテツを気に入り、寺院の反対を無視して安土に持って帰り移植したんですって。
処が、夜な夜な泣き叫んだんだそうです。「堺に帰せ~!」って。あんまり気色悪いので信長が一刀両断で枝を切り落としたんですが、切り落とした時中から血が吹き出たと言う話が残っております。実際には吸い取った水分が噴出した時、化学反応が起こり、赤く染まったのではないかと言う話なんですが・・・。
気味が悪いと信長は、結局このソテツをここへ戻したそうなんですが、戻された無残なソテツを憐れみ、日珖上人が毎晩法華経を唱え、ソテツの蘇生を願ったそうです。そしてある晩、夢枕に老人の顔を持つ大蛇のようなものが現れ、上人に感謝しこの街を守護すると約束したそうです。
その怪しげなものこそ「龍神」だったそうで、ソテツの足元には何故か可愛らしい(笑)龍神像があり、このソテツの前には「徳正堂」が建てられ龍神を祀っているそうです。

sakai6.jpg最後がここ。
まぁ、それまでにゆっくりと回っていたので時間が採られてしまいレンタサイクルでしたので4時半には戻らなければダメだというので回る場所は限られてました(苦笑)
えっとこれは「大野道犬冶胤」のお墓です。大野三兄弟の三男坊で秀吉の側近だった人ですね。次兄の治長は「大阪の陣」の時淀君と秀頼の側近として傍におり、噂では秀頼の実の父親ではなかったのかと言われていた人です。
この道犬は水軍として活躍しておりましたが、「大阪夏の陣」で大敗をし、京都まで逃れたのですが残党狩りにあい、ここ堺の町で火あぶりの刑にされたんです。当時は豊臣方は逆賊とされていたのですが後に「豊臣に忠義を貫いた武士」とされ堺の商人の手によって処刑のあった場所で供養塔が建てられました。その供養塔がここ「月蔵寺」に移転されたのです。
sakai9.jpg「日蓮宗 青陽山 月蔵寺」は普段は非公開だったと思われますが、今回は特別公開で開いておりました。
1495年、京都・頂妙寺の末寺として創建されたお寺です。
この山門は1850年に再再建されたもので、薬医門の形を取っており、山門の上には「司馬温公の瓶割」(*3)を題材にされた珍しい彫刻があります。日光東照宮にも同じ題材の彫刻がありますね。

帰り道にこんなものを見つけました。
sakai10.jpgキリシタン大名・小西行長の屋敷跡です。
ご覧の通り、道路側が家だったようですね。
まぁ、このように碁盤の目に町が変わったのは江戸期ですから、戦国時代にはここは道路ではなく屋敷があったと言う事ですね。
しかしまさか道路側に屋敷があるとは思わなかったので見落としてました(笑)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

*1 戦国時代です。年表上「戦国時代」とはだいたい応仁の乱(1467年)より室町幕府が倒される(1573年)を言うのだそうです。
その後は俗に「安土桃山時代」と呼ばれる事もあるそうですね。ですので、この時代の征夷大将軍は足利12代将軍・足利義晴の時代だそうです。

*2 三好氏 戦国大名で堺の町を一大貿易港として制定した人で、戦国時代初の天下人と呼ばれた家系でした。元々は四国の人なんですけどね。
詳しくはウィキペディアで・・・。→クリック

*3 司馬温公が
子供の頃、大きな水瓶に落ちた友達を助けるために、石で瓶を割りました。大切な瓶を割ったので叱られることを覚悟していましたが、父親は温公をほめて、改めて命の大切さを教えたと言います。

続きに今回寄った昼食場所と和喫茶のお話を・・・。
【2009/11/07 10:02 】 | 歴史 | 有り難いご意見(2) | トラックバック()
唐招提寺落慶法要での憤り

7da4c0d2.jpegちょっと憤りのようなものを感じてます。
唐招提寺にではなく、観光客の方にですね。
「一般にも見せろよ! 東大寺では見せてたぞ!」
憤慨が聞こえました。

まぁ、気持ちはわかるんですが。

京都では「拝観不可」と言う形を取りますが、奈良は「知らずにお越しいただいた方に申し訳ない。寺の大事な行事ですので見せる事は叶いませんが、他の場所の見学は出来るようにしたい」と言う意向が、裏目に出たような感じですよね。

東大寺も檀家寺のないお寺で拝観と言う形でお金を集めないと、維持すらままならないのは一緒ですが、そこと唐招提寺とを同じ視点で見るのは気の毒だと思うんです。
東大寺は奈良の顔と言える大仏様をお持ちで、奈良市内にあって地の利もよく、観光の中心部にあるわけです。
観光客の数は唐招提寺とは比較にならない。

唐招提寺を訪れた方が一様に「静かで良いお寺」とおっしゃいます。
それは言いかえれば観光客が少ないのではないかと思うんです。

そんな中で寄付などをして貢献されている方を大事にしたいと思う気持ちはよくわかります。
膨大な地所を維持するのはとても大変な作業。
お金も相当かかると推測されます。
税金は免除されてもそれだけでは足りないほどの金銭がかかると思われます。
国家の財産を守らねばならないわけで、なくすと言うわけには行かないでしょう。

1300年もたっているのに、まだ東大寺との因縁が消えないのかと思うと悲しくなります。
鑑真和上が5度の難破を経て、6度目にやっと日本を訪れた時、既に東大寺が建立されており、和上は都の果てに追いやられた形になりました。
大事なお弟子さんを36人も死なせてしまった心の傷を負いながらの渡来です。

どんな場所でも戒律を施せる場所があればそれでよいと平城京のお下がりの建物を拝領し、それを講堂にして唐招提寺が始まりました。
今の金堂が建立されたのは和上が亡くなった後の話。

和上の偉業を、何故1300年経った今でもこうして無意味な因縁で汚されなくてはならないのか、とても残念で仕方がありません。


 

【2009/11/03 10:12 】 | 他府県コラム | 有り難いご意見(3) | トラックバック()
奈良バージョン(モロゾフ)
nara-chi.jpg御当地チーズケーキと言うのがあってもおかしくはないなと思った一品です(笑)
「モロゾフ」は全国展開している会社ですよね?
ここのチーズケーキが大好きなんですが、奈良バージョンの鹿が可愛くてつい買ってしまいました(笑)
他の地域にはあるのかしら・・・。
ちなみに大阪のは確認していません。梅田とか新大阪に行けばあるのかしら・・・。
【2009/10/29 15:20 】 | 戯れ言 | 有り難いご意見(2) | トラックバック()
奈良県立美術館「神話」
失敗したなぁと思ってます(苦笑)
この展覧会、最終日(11月12日)は無料だったんですよね~。
行っちゃいました(苦笑)

今年、天皇即位20周年になる為に開催されている「正倉院展」は通常より3日長く展示されます。
その最終日(11月12日)は無料なんですよ。
それは知っていたんですが、こっちもそうだとは・・・、気づきませんでした。

もっと脳みそを働かせて考えれば解りそうなものですよね。
「古事記」に基づいた「神話」を題材にした絵画の展覧会なんですが、そうですよね、天皇に関係がありますよね。
それもめちゃくちゃ関係がある(苦笑)

江戸後期から明治にかけてこういう題材で描かれた絵画が結構存在します。
いつかは観たいと思っていたものでウッキウキで出かけて行ったんですよ~。
天孫降臨を全く信じていませんが、なかなか夢のある題材ですよね。
中には神話と言う仮面をつけた本当の話もあるに違いないと思ってはいますが。

小さいころから「ヤマトタケル」とは一体誰なんだろうって思っていたんです。
お墓も点在しており、スサノオ自身も「ヤマトタケル」と呼ばれている事もあるわけで・・・。
しかし、熊襲を征伐に向かったのち、東方も行っている「ヤマトタケル」とは同一人物ではないわけです。

誰だったか忘れたんですが、「ヤマトタケル」は一人ではなく「役職名」ではなかったのか?と言う仮説を出している方が居て、なるほどそうかもしれないと思いました。
また、日本の英雄伝説を一つにまとめて一人の人物を作り上げたとも言われております。

「ヤマトタケル」とは系譜がありまして、12代天皇景行天皇と倭姫命との間に生まれたとされております。
「ヤマトタケル」を「倭建命」とも書く事もあるそうなんですが、「倭」とは以前に書いた事もありますが、他国による日本を蛮国であると言う意味で使う文字であると言う事もあり、あまり書きたくは無い文字なんですよね。

ま、そんな事はどうでもよくて、この「ヤマトタケル」はスサノオが八岐大蛇の尾より取りだした草薙の剣(天皇の三種の神器の一つ)を母より受け取り征伐に向かうと言うくだりがあります。
日本統一って事でしょうか。
以後、天皇を頂点として国家が成り立ってゆくと言う話に繋がって行きますが・・・。
まぁ、真実はどうあれ、それは揺るぎのない事実で、他国では見られない国家であり、それがあるからこそ、創業1000年以上と言う、世界に類のない会社が存在するわけです。
昭和天皇は124代で平成天皇が125代目って事ですか?
四天王寺現管長が111代管長だそうで・・・、いずれにせよ気の遠くなる系譜です(苦笑)

ますます話がそれてゆく(苦笑)

倭姫命が何故「草薙の剣」を所持していたかと言うとですね、八岐大蛇を退治したスサノオがその尾より取り出し、姉であるアマテラスに献上したわけです。
そのアマテラスを祀っているのが伊勢神宮。その伊勢神宮の初代の斎宮だと言われている人です。
(倭姫命のお墓は伊勢にあり宇治山田陵墓参考地の尾上御陵だと言われています。彼女を祀った神社も伊勢にあり現在も『倭姫神社』として存在しております。)

ま、そんな日本神話を見にいったんですが、一つ・・・。中にとんでも絵がありまして。
八岐大蛇退治を題材にして描いていたんであろうとは思うんですよ。思うんですけど、その大蛇の絵の上からカンバスを破って顔を突き出す犬の絵を描いてあるものがあり、まさに「なんだこりゃ」な絵になってます(笑)
作者は途中で飽きたんでしょうかね(苦笑)または、気に入らなくてこんな絵を描き加えたのか・・・。

もう一つは外人のような浦島太郎の絵。
水晶が人魚(人魚じゃなく竜宮城の女官かも)の胸に掲げてあって(水晶じゃなくシャボン玉?水しぶき?)何も描かなくてもいいとは思ったんですが・・・、人魚の乳首をクローズアップしているとか・・・。描きたかったんでしょうかね~。

そんな「なんだこりゃ」な絵も見れますので、お時間があればお出かけください(笑)

zihan2.jpg話は変わりますが、奈良の自動販売機って、ここだけの寄付金制度があるんですね(笑)





【2009/10/26 21:14 】 | 他府県コラム | 有り難いご意見(3) | トラックバック()
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