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【2025/06/16 11:36 】 |
お祭り期間
大阪のお祭りが本日から始まりました。

有名どころは

こちらをクリック

ここで書くより正確かと(苦笑)

pdfで記されていますので印刷をしてお持ちください

思いっきり手抜き情報でした(汗)

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【2009/06/30 20:03 】 | お知らせ | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
玄奘三蔵伽藍大唐西域壁画殿
033.JPG薬師寺の玄奘三蔵伽藍にある大唐西域壁画殿には平山郁夫氏による大壁画があります。
薬師寺にはよく行くのですがここへはあまり入らない、と言うか、春と秋にしか開かないので開いていても忘れて入らずに帰ってしまう事が多いというのが本当(笑)

この壁画は玄奘三蔵がたどった道を描かれていると言うので有名なんですが、ちょっとここに居た解説して下さるおじさんと話をしていて思わぬ話をお聞きしました。

これ、実は壁画に見せた三尊像だったりするんだそうです。
ビックリです。
「平山氏からの挑戦状?」なんて事を申しておりました(笑)
だってそんなこと何にも書いていないから単に壁画かと思うではないですかね~?

御本尊が中央にあるヒマラヤです。
しかもこのヒマラヤ(平山と書きそうになる(苦笑))中央にドカンとそびえたっているのではなく、谷間から見えるような、現実に見える姿をそのまま描いたもので、本尊とするには変わった描き方だと思ったんですよ。
でも、仰ぎ見る時、谷間からやっと見えた姿と言うのは感動を呼びます。会いたくてやっと会えた人の遠くの姿を見つけた時のような、そんな感じもするので、この描き方も「あり」だなって思っていました。

行かれると解りますが、中央に描かれているヒマラヤはくっきりとしたカラーのはっきりとした絵ですがサイドにある高昌故城の遺跡(現・トルファン)とバーミアンは砂色をしています。これが脇侍にあたるのだそうです。

そして最後に描かれているナンダ-ラにこの壁画群唯一の人物の影が描かれています。
この人物についてはなんのコメントもないのだそうですが、玄奘三蔵と言う人もいれば、高田好胤和尚、その人だと言う話もあります。
平山郁夫氏は高田好胤和尚と共にシルクロードを何度か向かったと言われていますが、このナンダーラは高田好胤和尚が行きたいと言いながらも結局訪れる事の叶わなかった場所だそうで、その地に和尚が絵の中で降り立っていると言われると、「その説の方が良いな」と私は思いました。
月夜のナンダーラ。幻想的な風景が静かにたたずんでいました。

それからここに描かれているバーミアンは破壊前のバーミアンです。たった半日の時間しか取れなかった平山郁夫氏がどうしても行きたいと強行突破をして半日でスケッチしてきた風景が描かれています。

その日。あのバーミアンが爆破されたあの日、平山郁夫氏が激怒していた映像が思い出されました。

宗教に卑賤はありませんが、他宗教を敵視するのだけはやめてほしいですよね。でも話していたんですがイスラムにそんな教えは無いのだそうですね。結局、別れて行った様々な宗派と同じ事で、後世にドンドンその教えの解釈が変わっていき、時には政治や戦略に使われるわけです。
10人いれば10人の考えがあり、10通りの道があるわけです。これがまさしくこの薬師寺の信仰する法相宗の教えなわけです。

余談ですが、「どうして一途な思いだけであのような過酷な旅に出る事ができたのか」と言う質問を投げかけたところ「われわれとは違うのですよ」と言う答えが(苦笑)
そりゃそうでしょうけど・・・、その答えは答えになっていない気が(苦笑)
でもいろいろ話して行くうちに解ってきた事が一つ。一言で言えば玄奘三蔵と言う人は癒し系の人物だったかもと言う事(苦笑)
とにかく一つの事しかできない不器用な人物で、根が素直で明るい人だったから「手を貸してやりたい」と思わせるような人物だったそうで、だからこそ、旅立ちは一人でしたが行く先々で援助を受け、彼は他の僧のように可哀想な末路をたどることなく天竺にたどり着ける事になったようです。
とりわけ、トルファンの王にはお世話になったそうで、帰りにしばらくトルファンでそのありがたい教えを教授してほしいと言われ、約束して天竺に向かったそうです。
天竺に向かって帰国するものは帰りはたいてい船で帰るのだそうですが、玄奘三蔵は約束があるのでと言う事で陸路を取ったそうです。しかし、彼がトルファンに向かう途中、その王国が滅ぼされたという事を知り、ずいぶん嘆いたと言う事でした。
「諸行無常の響き」を聞かれたのですね。

行きと帰りは陸路と言えど違う道をたどったそうです。その帰りの道がこの伽藍では壁画の足元に描かれています。
これがいわゆる須弥壇にあたるのだそうです。

行かれる機会がありましたら、「ああ、玄奘もおバカキャラ的な人だったのかしら(違)」と思いながら見てみては如何でしょう(笑)

最後に、お聞きしたんですが来月から東塔の周囲には柵が出来るのだそうで近寄る事が出来なくなるんですって。
【2009/06/27 23:05 】 | 他府県コラム | 有り難いご意見(2) | トラックバック()
プリンセストヨトミ
tyako.jpg「鴨川ホルモー」「鹿男あおによし」の万城目学(まきめまなぶ)さんの作品です。
一言で言って「大阪人の夢」のような話(笑)
夢うつつの「夢」ではなく、想いのような、見果てぬ夢的な「夢」の方です。そして読んだ後は「ある気がする」と思っている自分を発見しました(笑)奇想天外な話なんですけどもね、大阪人だったら「あるんじゃないの?」と感じてしまう、そんな話です。

詳しく書くとネタばれになりそうでなんとも書きようが無いのですが・・・。
kara1.jpg舞台は大阪中央区にある空掘界隈。ここは戦火からも免れ、古き良き大阪を目の当たりにできる場所です。地区保存と言うか、長屋再生を推進している地域でして、ご近所にある所為か、凄くこの舞台がリアルに検証できて私にはさらに面白い本となりました。そういう点で、この本は小説と言う形をしたご当地本。大阪の観光案内も兼ねているのかもしれません。
大阪と言えば「道頓堀」「心斎橋」「アメリカ村」「USJ」しかなく、観るに値しないと思われがちですが、こういったディープな場所も私が知っている限りで後3か所はありますね。
「大大阪」と銘打って明治大正に建設されたレトロな洋館もクローズアップされていますが、私としてはこんな長屋がある町こそ、「昔の大阪」を見る事が出来る場所だと思っています。

(参考資料→
クリック クリック2

そんな古き良き大阪の街に住む、少女になりたい大輔少年と、彼の幼馴染・茶子がキーポイントとなるお話。

突然、緊急業務以外の全ての機能が停止してしまった大阪。
大阪の商店に居るのは女性だけ。
男性が行う業務、特に交通機関は全線ストップしてしまった。そのわけは・・・。
と言う話なんですが、言えない(苦笑)これ以上言うと面白くない(笑)

ただね、伏線が多すぎて、話の前半はかなりトロトロと話が進みます。それさえ乗り越えれば(笑)後は急速に話が展開していきます。

予備知識として、「大坂の陣」の話を知っていると面白さは「ニヤニヤ」が加わり面白くなります(笑)
さらに、戦国武将の知識があればもっと「ニヤニヤ」が「ププッ」に変わります。

知らなくとも奇想天外な話とエンディングの「え~?」が面白いので楽しめます。

一度読んでみては如何でしょうか?
【2009/06/25 10:56 】 | 戯れ言 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
七夕イベント
もう、七夕。
世の中早いです(苦笑)

とりあえず、大阪城でのイベントだけ今はお知らせ
天守閣小天守に七夕の笹を設置するんですって。
ちょっと面白い(苦笑)
いっそ天守のあちこちに笹が突き出ていた方が笑えるのに(大阪は笑ろうて、なんぼ)

まぁ、そんな事も出来ないでしょうからね。
お子様と行かれたら如何でしょう。
七夕の飾りつけ、できるそうです。

ミニ笹作りの参加と大阪講談の観劇(?)は今日までの申し込みなのだそうですが・・・。

詳しくはこちらまで

クリック
【2009/06/24 10:19 】 | お知らせ | 有り難いご意見(2) | トラックバック()
持論・真田丸2
以前、忙しい年末に現実逃避材料としてこのような記事を書きました。→クリック
まぁ、それの続きみたいな話を少し。

某所で脳内妄想をフルに発揮して書いていた事をここでも記述しようかと思い至ったわけです。

大阪・高津宮で大阪の古写真を見つけました。
1691.jpgそれがこれ。1691年の地図です。
まだ、「真田山」「宰相山」という表記のなかったころ。
そりゃそうです。上記の名前は後世に付けられた名前ですからね。
この部分の現在の地図は→クリックここですが、気になっていた事があって、これもどこかで書いた気もするんですが、「宰相山」という公園がどうして元大阪城内に位置しているのかという話です。

「宰相山」という名前の由来というのがありまして、大坂冬の陣で真田丸を攻撃した前田宰相利常が陣を張った場所と言うはなしからだそうで、ありえませんよね。だって豊臣方にすれば敵ですのに、その敵が大阪城内で陣を張っていたなどと、普通に考えれば妙でしょう?

で、ちょっと歴史博物館で目にした仮説に大いにうなずけたわけです。
つまり「真田山と宰相山の地名の位置が逆転している」という説です。
それは大いにうなずけると思い、是が非でも大坂の陣に近いころの古地図を目にしたいと思って、先ごろあたふたとしていたわけです(笑)

で、この地図ですが、今の地図表記と同じように北を上にしてみました。
ここで見ると今の明星高校あたりに「真田曲輪」という表記があり、慶伝寺(現在も存在しますが)の下(南)に「加賀築山」と書かれています。
現在では真田山公園にあたります。

この加賀築山というのが今で言う宰相山ではないかと。

で、現在の宰相山付近には山の絵は描かれていますが表記はありません。
以前載せた文久3年の地図にあった「宰相山仁徳天皇社」というのは描かれておりません。→クリック
この仁徳天皇社というのが現在の三光神社にあたりまして、三光神社内にはこの社も祀られております。
そこで三光神社の位置を調べていますと、元々は今の玉造稲荷別社(東雲稲荷)という場所にあったようなんですよ。現在の地図では表記されておりませんが清水谷高校の長堀通を隔てた向かい側にあります。明治に入ってここに移転したようです。

それから気になったのが1691年の地図に描かれている並んだお寺。
心眼寺・大応寺(地図では大廣寺)などのお寺ですが、ここにこのお寺が当時からあったりすると、こんなところで寺などやっている事も出来ないはずと調べますと、どうやら大坂夏の陣以降、松平忠明(時の大阪城主)がここに城の防衛も兼ねてお寺を集めたのだそうで、大坂の陣当初、無かった事が判明しました。
つまり、ここも山、だったという事です。

上図の「真田曲輪」の部分ですが、ここだけで真田丸を作るのなら、この横の山ががら空きって事でしょ?
今はありませんがお城の東は猫間川が流れていて、防塞の一つになっていたわけですが、その猫間川もこの山で途切れていました。ですので、山といえど低山ですので、わーっと攻めてこられたらアウトでしょうに・・・。

真田丸で空掘りを作って前田勢をそこへ落っことしたと言う事なれば、山の上に作った方が戦略的にも在りだし、空掘りも作りやすいでしょう。

三光神社の裏にある陸軍墓地としては日本一古いと言われる場所は現在「宰相山公園内」になっていますが、ここは「旧真田山陸軍墓地」と言うのが正式名です。

(旧真田山陸軍墓地についてはこちらで→クリック

宰相山だと言いながらも戦時中、ここは真田山であるという認識があったという事でしょうか?

それともう一つ気になっていたのが「鎌八幡」事「円珠庵」の場所です。
真田幸村がご神木に鎌を刺し込んで戦勝祈願をしてから「鎌」を打ち込んで祈願するようになったという真言宗のお寺ですが、当時「お寺」ではなかったようですね。
最初はご神木だけがあったような感じです。
もしかして小さな祠があっただけではないかと推測しています。
この前の道ですが、以前にも書いたと思いますが「三韓坂」と呼ばれており、聖徳太子の時代、朝鮮から来た方々をもてなす迎賓館のようなものが真田山に存在し、そこへ繋がる道と言う事でこの名がついたという由来があります。
ですので、道があったと思われますが、上図ではその道も途中で止まっており、もう少し時代の下った地図を探してみたいと考えています。

enoki.jpg余談ですが、「鎌八幡」のご神木は「榎」とあるのですが、ふと思い出したのが空掘り商店街傍にある「榎大明神」。
(由来→クリック
鎌八幡もこんな感じだったのかしらと思った次第です。
この榎大明神、榎とうたいつつも実は「槐(えんじゅ)」
鎌八幡の「円珠庵(えんじゅあん)」と言う名前、もしかしてここも「槐」なのでしょうか。
調べるために中に入ればいいのですが、実は怖くて入れません(苦笑)
変な念を持って帰りそうで生まれてこの方一度も足を踏み入れたことがありません(汗)


【2009/06/21 18:04 】 | 歴史 | 有り難いご意見(3) | トラックバック()
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