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【2025/08/10 07:34 】 |
真田だらけでございます。

大阪も昨日、とうとう30度越えとなりまして、季節外れの夏もどきバテを起こしております(汗)
我が家の箱入りネコ達も熱中症になりかけて、思わず軽くクーラーをかけてしまいました(昼の2時間ほど)

さて、5月は「大阪・夏の陣」で上町台地は真田イベントだらけでございます。

5月6日

ゆっくりと休む予定だったのですが、仕事で行けない娘の願いで代わりに講談を聞きに行ってまいりました。

題して

koudan.jpg「第1回真田幸村をたたえる講談会」!

なんだそりゃと
思われますでしょうけど、えっと、上方講談はいろいろと複雑な事になっておりますが、それはまた後の話として・・・。

まぁ、聞いて楽しいのなら観客はそれでいいのでありまして、破門になっていようが独立独歩をしていようが、訴訟をおこそうが、どうでもいいのであります(苦笑)

ま、今回は四代目旭堂南陵派(大阪講談会)の講談であります。

全部、幸村(笑)
「たたえる」と言うからには「幸村」でなくてはなりませんが、一席だけなぜか秀吉と伊達政宗のお話でした。

えっとザッと説明いたしますと、起源は秀吉のお伽衆なのだそうです。ああ、これは「一説によると」と言う但し書きが入るのでしたっけ・・・(あいまい)
とにかく江戸の大道芸として軍記物を中心に調子をつけて話し出す(話芸ですね)辻講釈が原型であるのは確か。
それが講談として成り立ったのが江戸中期。明治・大正になりますと、関西では講談本として立川文庫が刊行され一大ブームになったのでした。
中でも「難波戦記」は人気があり、長い話をキャラクターで分けて刊行され、そしてやはり人気があったのが「猿飛佐助」
映画「GOEMON」でも出てきますね~、確かガレッジセールのゴリさんが演じていたような・・・。
余談ですが、こんなものが・・・。→クリック
え?こっちとコラボなの?歴女狙い??<GOEMON
まぁ、ここの霧隠才蔵も猿飛佐助も真田十勇士だけれど、全く真田とは関係がなさそうです(笑)

猿飛佐助はもちろん架空の人物。だったと思うのですが、なんでも彼の生まれ故郷とされているところには銅像があるとかないとか・・・。
それほど、人気があったということでしょうかね。

ちらっと書きましたが、真田十勇士はもちろん講談が生み出した架空のキャラクターです。
真田幸村の家来にして、関ヶ原あたりから闇から闇へと活躍します。
最初は三勇士だったそうで、それが五勇士となって、大正のころには十勇士となったのだそうです。
さらに余談ですが、実は「幸村」と言う名前も講談から呼ばれた名前でして本名は真田信繁と申します。しかし「幸村」の方が知名度が高いため、たいていのところでは信繁を「幸村」と表記されています。博物館でも「幸村」と明記されています。

そんな講談を聞きに生國魂神社(いくたまじんじゃ)まで行ってまいりました。
神社・・・、そうなんです、神社なんです。
まだ、19日までは喪中の身(汗)
どうしたものかと、傘をさしつつ神社の前で立ち尽くし、「ええい、喪中の身ですがお許しください」と敷地を踏む前に拝んで、鳥居の脇から入ったのでございます(悪)

定員100名と言う事で、当日券はあるかいなとウロウロと入っていけば、十分にあったようで、ホッとして中へ入っていきますと、時間がたつごとに人が増え(汗)まばらだった会場が定員オーバーになるほどの盛況ぶり。
なんでも新聞に載ったそうです<この講談情報
何処に載っていたんだろう。みたのは「うえまち」と言うタウン新聞だけだったんだけど、それの事かしら。

スタッフの方々も50人も入ればまずまずだろうと思っていたらしく、そのあとは来られた方と一杯飲んで「真田話」で盛りあがろうと思っていたようですが、期待以上の入場でそれは叶わぬことになったようです(苦笑)

うれしいような悲しいような(苦笑)

さぞや、歴史ヲタクで、歴女でいっぱいだろうと思っていたら、なんと98%シニア世代。私などまだ若い方で・・・(汗)

やはりこれはかなりレアな会だったようで、この情報を私が知ったのも、3日にお会いした南陵師匠直々のお知らせからで・・・。
ほんとギリ情報だったんですよ。

1時間半くらいでしたかね、上演時間。
面白かったですよ。
講談もいいですね。「修羅場読み」というものはリズムもあってなかなか聞かせます。

そう言えばですね、ここで出演されていた南半球師匠。
以前、TVの情報番組か、ニュースで特集にかは忘れましたが、そこに取り上げられていた方で、アニメを講談で聞かせると言う変わったことをなさっています。

しかもガンダム専用(笑)
koudan2.jpg「宇宙世紀を修羅場読み、見てきたようなジークジオン」
いやはや、なかなか濃い講談です。
ガンダムを知らなかったらきっとさっぱりわからないだろう講談(笑)

師匠のHPがございます。こちら→クリック

もっと濃いブログはこちら→クリック

師匠はジオン軍派なんでしょうね(笑)
東京が連邦軍で大阪がジオン軍なのかな?

興味のある方はどうぞ。




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【2009/05/12 16:15 】 | 大阪コラム | 有り難いご意見(2) | トラックバック()
玄奘三蔵会大祭
5月5日

薬師寺・玄奘三蔵会大祭に行ってまいりました。

伎楽です。
あまり馴染みのないものでしょうけど、舞楽・雅楽といったものの、元になったものです。

gigaku1.jpgもともと中国から伝来した仮面の大きな無言劇であったものですが、日本では6世紀頃に、寺社の境内で仏の教えを深く理解させ、仏法を広めることを目的として、盛んに上演されていました。

ところが、飛鳥以降すたれてしまい、正倉院や法隆寺などには、百面を超える伎楽面が現存し、国宝として指定されており、伎楽面は、人顔・妖怪・獅子・金剛など様々ですが、演目については、現存している資料が非常に少なく、詳しいことはあまりわかっていません。

しかし、1000年たった現在、昭和55年に東大寺大仏殿の落慶法要で復活しまして、その後、薬師寺では『最勝会』の一つとして行事化するようになり、現在もなお、1000年前の姿そのままで執り行われています
しかしながら、簡単にはいかなかったようで、薬師寺では当時の染め技術の復活から始まり、衣装の製作、そして、さらに解りやすくするために僧の声明によって解説を入れながらの上演となっております。
これを聞いていますとね、お坊さんも能の謡ができるのではないかと(苦笑)
薬師寺のお坊さんはとにかくなんでもやらなければならないため、なかなか器用な方が多いです(笑)

gigaku3.jpg今年の玄奘三蔵役は狂言師の茂山逸平さん。

薬師寺の玄奘三蔵院伽藍で行われる行事で、残念ながら一般参拝の方には拝見できないようです。
外からなら見れるのかしら・・・。それとも後ろで立っている方々が一般参加の方々だったのかしら・・・。すみません、不確かで・・・。
なにかしら薬師寺と縁を結んでいる方に招待状が届き、それで入堂できると言うシステムです。
とにかく、30年近くぶりの(汗)雨だったもので、伽藍全体に屋根ができていてうまく写真が撮れませんでした。
なんだか雨にたたられてます(苦笑)

玄奘三蔵の分骨がこの薬師寺にはございます。
長らく彼のお墓の場所が分からず、遺骨も不明になっていたのですが、戦時中、中国に居た日本兵が発見し、いったんは日本に持ち帰ったのですが、これは中国にお返しすべきものと、平和になってから玄奘三蔵は帰国されました。

その後、発見してくれたお礼だと日本にも分骨され、その一部が玄奘三蔵の教えを伝えている(法相宗)総本山である薬師寺に贈られました。
そしてそんな大事なものを贈られたのだからとこの伽藍が建立されたのでした。

玄奘三蔵と言えば一般に「三蔵法師」と言う名前で親しまれ、あの「西遊記」と言うお話が有名ですよね。
鎖国をしていた長安を後にして、禁を犯し国を出、そしてインドまでありがたいお経を授かりに旅をした三蔵法師は、実際にはたった一人だったという事です。
インド(天竺)への道のりはそれはそれは過酷だったようで、それがあまりにも痛々しいと後の世の中国の人が「彼を助けるお供」を生み出し、「西遊記」が生まれました。

たった一人で過酷な旅をしてインドまでたどり着いた玄奘三蔵は、インドで様々なお教と出会い、勉学にはげみ、そして大量にお経を写経して持って帰ったのだそうです。行きはコッソリと出た玄奘三蔵でしたが、帰りはその功績をたたえられ、鳴り物入りで長安に入ったそうです。
彼が持ち帰ったお教は中国語に翻訳され(玄奘三蔵は翻訳家としても第一人者)日本に伝わったのです。
そして、あの「般若心教」も玄奘三蔵が訳したものです。

そんな彼の旅の様子を伎楽で演じていらっしゃるのです。
gigaku2.jpg伎楽の花形でもある獅子。
 
gigaku4.jpggigaku5.jpg
伎楽奉納の前の散華と大涅槃経の転読

この散華、座っている真上からも落ちるようになってましてね、私の目の前にヒラヒラと舞い降りたものを取ろうとした瞬間、一人、間に挟んだ向こう側に座っているご婦人が身を乗り出して私の手の中に入ろうとした散華を奪い取って行きました(汗)なんだかむなしくなりましたよ・・・。
持って帰りなさいと言われたかのように落ちてきた散華を掠め取られるなんて・・・。
それでも他にも落ちてきたので、1枚だけ頂戴して、後は取る事の出来なかった後ろの方にお配りしました。すると、私の前に座っているご婦人も、後ろに回して下さって・・・。本当は分かち合ってこその散華だと、思うんですよね。
恥ずかしくも、席から駆け寄って演目が行われている最中の舞台近くの三蔵院まで回り込み、数十枚も拾い集める方もいて、お坊様から渡されるのなまだしも、なんだかあさましいというか・・・、そんなに持ち帰って何にするのだろうと思ったり・・・。まぁ、家族に分け与えてお財布にでも入れるのでしょうけど・・・。
以前にも経験したんですよ、こんな風景。
娘がガックリと肩を落とし、醜くて、正視できなかったと。
散華を奪い合うシーンは残念ながら事あるごとに目撃してしまいます。

その後夕食券というものを頂きまして、ちらし寿司の折り詰を頂き、写経道場で頂きました。その整備をしているのが全員高校生。
きっとボランティアなんでしょうね。遅くまでご苦労様でした。

gigaku6.jpg入堂する前に頂いたろうそくは終わった後それぞれこの起き燈篭に点火したものを各自が灯してゆきます。これは玄奘三蔵院伽藍と白鳳伽藍の間に並べられてあります。
私も娘の供養のため微々たるお金ですが協力いたしました。なかなか幻想的になっていました。


『最勝会』とは。

パンフレットには「神仏の国、日本には、勅使の参向を受け行われた幾多の仏教儀式の中でも、とくに重要とされた3つの法会がありました。その一つが500年ぶりに復興された、薬師寺の「最勝会」と言う法会です。最勝会は国家安泰や五穀豊穣などを祈る法会で、僧侶の国家試験の場でもありました。講堂の本尊阿弥陀繍佛のもと盛大に行われてきましたが、享禄元年(1526年)の兵火により焼失し、法会も途絶えておりました。それ以来、最勝会の復興は一山の悲願でありました。
ようやく平成15年、大講堂復興と共に平成の世に「最勝会」は蘇りました(以下略)」

ところでこの日、一人なのか数人なのかわからないのですが、お写経を一気に一万巻奉納された方が名古屋からいらっしゃいまして、ビックリしました。
一万巻ですよ?
1日1枚書いたとしても10000÷365=27.397・・・
つまり27年間かかるわけです。
卑しい話ですが、金額にすると2000×10000=20,000,000
来られた方のみならず、お坊様も唖然と・・・(苦笑)

世の中には凄い人もいるものだと・・・。

まだまだ、昨日に引き続き、精進せねばと(苦笑)


【2009/05/10 14:07 】 | 他府県コラム | 有り難いご意見(2) | トラックバック()
四天王寺で授戒

5月4日

四天王寺で授戒灌頂を受けてきました。
四天王寺の説明を引用しますと、「授戒とは、仏弟子になることを誓い、心身のあ
やまちを防ぐための戒律を授かる儀式で、灌頂とは、授戒を受けた者が、頭に仏の法水を頂くことによって仏になるという密教の儀式であります」

早く言えば即身仏と言う事ですが、まぁ、死んでミイラになり永遠に仏に仕えると言うわけではなく、在家の仏弟子と言った事でしょうか。

僧になる時『得度』すると言いますが、この授戒を受けて僧侶の資格を得るんです。授戒と言えば思い出すのが鑑真和上ですが、聖徳太子の頃、仏教伝来とともに授戒も伝来しておりまして、聞くところによると当時は極秘に公開されないで為されていたそうです。密教系の匂いのする授戒儀式は怪しきことこの上ない作法でした(笑)

詳しく書くのははばかるので書きませんが、薄暗い場所で丸一日儀式と作法を執り
行います。食事も作法に則って頂くわけです。

四天王寺五智光院と言う場所で授戒を受けます。
この建物は大空襲にも見舞われなかった建物で、豊臣秀頼が寄進した建物です。
その為、重要文化財となっている御堂です。

なぜ授戒を受けたかと申しますと、実は戒名を頂けるんです。
ただし、三回以上受けないと○○院○○○○居士(大姉)と言うところまでは授か
らないのですが。

以前は泊まりがけの二日修行だったようですが、現在では日帰りとなっておりました。

主人と主人の妹夫妻と共に行ってまいりました。
毎年このGWにあるので、少なくとも3年は通うことになります。

戒名と言うのは死後、院号だけで4-50万は必要となります。
実にお高い。
自分の死んだ後始末にかかる費用くらい、自分で出したいですからね。
ちゃんと授戒して死んでいきたいかなと、主人と話しておりました。
実は主人の両親、私の両親共に、授戒をして戒名をすでに頂いていたため、慌てる
事なくすぐに白木の位牌に戒名を入れる事が出来たのですよ。
それでなくともパニックが起きそうなほど様々な準備の必要な葬儀。
これだけでも大分助かりました。

今回頂いた戒名は二文字。
来年行くと全部で4文字。
3年後にはそれに院号の3文字が付き、戒名が完成します。

受けにくる人はやはり60代以上の方がほとんどで、中には25年目と言う方もいらっしゃって、いったい幾つから授戒を受けているのだと驚いておりました。
私の年齢で始めて76歳と言う事だと、出来ない事はないけど、そこまで帰依しな
いかもと(苦笑)
しかし、母親に連れてこられたのか20代の女性も一人いらっしゃって、きっと、思
うところがあったのか、あるいは僧侶の娘さんなのかと色々考えてしまいました。


さて、在家の仏弟子とはなんぞやと思われる方が中にはおられるかもしれません。

例をあげると聖徳太子ですね。
聖徳太子と言う名前は戒名ですので、本当は厩戸皇子、あるいは豊聡耳(とよとみ
み、とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)ともいわれますね。

得度したけど僧侶にはなっていない人の事です。

維摩経と言う経典があります。
これは維摩居士(居士とは在家の仏弟子の事)の事が書かれてある御経です。
聖徳太子はこの維摩居士の生き方にあこがれて、在家の仏弟子となったと言われて
います。

維摩居士の事についてはまだうまく消化できないので(苦笑)説明が出来ません。禅の極意に近い部分があって、なかなかどうして、私なんぞには理解しがたい部分が多く、簡単に書けません。

精進するのは一生かかりそうです(苦笑)

o-ten_hoka5.jpg

写真は本坊。ここに集まってから五智光院で潅頂を受けます。

 

【2009/05/09 18:47 】 | 戯れ言 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
大坂夏の陣と幸村の娘

osakagaku2.jpg産経新聞にも掲載されていました。

5月3日 大阪文学振興会主催(HP)の催し物です。
大阪の文学や歴史を市民に勉強してもらおうと言う会なんです。
事務所が一心寺内にあるので、
一心寺がバックアップしているのかもしれませんね。

osakagaku1.jpgさてさて内容は、
まずは「講談師、見てきたようなウソをつき」と申しますが、なかなかどうして、そのなかにも本当がいくつも入っており、今回のお題目「幸村の娘」と言うのは、
真田幸村の娘、梅さんの事。
演ずるは旭堂南陵師匠。
写真は会場の一心寺千体佛像堂。

幸村の娘は夏の陣の時、敵方であるはずの伊達政宗の家臣、片倉小十郎に託され、小十郎の後妻となっております。
この小十郎は、息子の方です。
実は片倉家は当主が名前を継いでいたのか、その後の話は知らないのですが、このときはそうだったようで、伊達政宗の片腕とされていた小十郎ではなくその息子、
小十郎重長に託されたようです。
そして奥さんが亡くなられた後、梅さんは片倉家の嫁になり子供が生まれています。

その場面の講談でした。

その講談を受けて歴史学者の北川央さん。
「普段は南陵師匠のコケ落としをするのですが、今日はなぜかホローに回っております」とおっしゃって、「実話が混ざっている」とおっしゃっておりました(笑)
なんでもいつも二人は対で講演をおこなっていらっしゃるようで、そのような事になっているようです。

北川さんが担当したお話は、秀頼と彼の子供のお話。
資料を読みながらの本格的な歴史勉強をしておりました。

さて、その話をザッとお付き合いください。

osakagaku3.jpg大坂夏の陣、豊臣秀頼は大阪城で自害いたしました。
これが通説です。
その場所が何処であったか。
大阪城では山里曲輪(やまざとぐるわ)で亡くなったと言う説を取り、写真のような石碑が建てられておりますが、北川さん曰く、「そんなものどこか解りませんから、こんな石碑を建てるのは実は反対でした」とのこと。



*家康の話が書かれている『駿府記』では家康の側近曰く「帯曲輪(おびくるわ)で自害した。
*南禅寺の僧の日記、『本光国師日記』では「唐物蔵」で自害した。
*伊達政宗の書状では「下の丸の蔵」で自害した。
*ひこにゃんで有名な井伊家の本『井伊年譜』では「東腰郭シユサン櫓」で自害
*藤堂高虎で有名な『藤堂家譜』では山里曲輪で自害。
*『土屋知貞私記』では「千貫櫓」で自害。
*『明良洪範』では「蘆田曲輪」で自害
*『武功雑記』では「玉造ノ櫓」で自害
とまぁ、どれもこれもバラバラで、
みんなまた聞きしているのか適当な事を書いているのか、そんなに場所は重要ではなかったのか、共通しているのは自害と言うことだけ(苦笑)

しかしこの自害と言うお話も実は生存説もその当時から流れていたのでもはやあやふや(苦笑)

わらべ歌で「花の様なる秀頼様を、鬼のやうなる真田がつれて、退きものいたよ加護島へ」と歌われており、当時、平戸(九州)にあった東インド会社の商館長をしていたイギリス人のリチャード・コックスと言う人の日記に、
「1615年6月16日、秀頼さまは生存し、
大名の彼に加檐(かたん)するもの多しとの風聞あり、しかれども予は皆虚説なりと信ず」と書かれてありました。
この6月の16日ですが、当時日本は太陰暦を使っており、彼はイギリス人ですので太陽暦(現在使われている暦)を使用しているので日にちが違っていますが、夏の陣直後のお話です。
それからひと月後にはこの風聞を信じて徳川家が九州に大捜査網を引こうとし、当時から仲の悪かった九州・島津家と戦になりかけたという話に至っております。

他にも彼の生存説を促した書物は沢山あり、
信州松代・真田家でその真偽を確かめるべく検証し始めたらしいのですが、結局真実でもないけどまったくの嘘でもないので後世の人に頼むとか書いているんですよ(『先公実録』)

それもこれも、遺体が発見されなかったというからでしょうね。

さて、秀頼の子のお話。
子供は二人。側室との間に生まれた男の子と女の子がおりました。
男の子は国松と言う名前でわずか8歳で京都で処刑されております。
子供の処刑は皆の涙を誘ったようで、家康は非道だと噂が絶えなかったようです。女の子のほうは秀頼の正妻にして、家康の孫にあたる千姫の助命嘆願により助けられ、尼僧となって全うします。

これは周知の事実。

しかしもう一人居たことがわかっております。

しかも助かるはずのなかった男の子。
びっくりすることに、彼は徳川家の菩提寺、増上寺の僧として父、秀頼の菩提を弔い続けたという話が残っております。
彼は死ぬ間際に己の素性を明かしたと言うのです。
誰の手配で彼が徳川家に近い場所で生き続けたのでしょうね。
あまりにも哀れだと思ったので、内緒で連れ帰ったのでしょうか。
『続日本高僧伝』と言う書物の「求厭(きゅうえん)」と言う高僧のくだりに載っております。彼は80歳まで生きたようです。


そんな歴史勉強の後、
一心寺の長老、高口恭行さんと旭堂南陵さんと共にゾロゾロと(苦笑)歴史散歩をいたしました。
その写真が新聞に掲載されているのですね(笑)

osakagaku8.jpg一心寺に本多忠朝の御墓があるのは以前書いた気がしますがそれがこの写真。
一心寺は大坂夏の陣の頃、焼き払われております。
現在、一心寺の隣で工事がなされているのですが、その地層からその当時の地層が出てまいりまして、焼かれた跡が残っていたそうです。
ここが激戦区であったことがうかがわれます。
忠朝の軍は今の天王寺ステーションビルあたりで布陣していたようです。
そして、忠朝の軍の前には大坂方の毛利勝水の軍がにらみをきかしていたんです。
それが今の四天王寺庚申堂周辺。
そして茶臼山の真田幸村軍の前には徳川方の越前兵が待ち構えておりました。
そこが今の市大病院あたり。
越前兵と忠朝には共通の事がありまして、どちらも冬の陣での失態を家康に叱責されているのですよ。
ですので今度こそ手柄をあげると勇み足だったんですね。
東西がにらみ合っていた境界線と言うのが今の大阪環状線と符合するとか(笑)
内と外でにらみ合っていたようです。

地図→クリック 

長老曰く、「デモを思い出してください。安保の頃学生闘争がありましたでしょ?あのデモ隊も後ろから後ろから押されて前にいた者がジリジリと押し出されます。あれと一緒だと思いますよ。歩兵たちがジリジリと押し出されて前で戦う。そして前が倒れたらまた後ろの奴が前になって戦い始める」
なんだかサメの歯を思い出したのですが、そんな風だったんでしょうか。
TVとかでみるとね、ワーッて走りだすイメージがあったんですけど。

道順は
本多忠朝の墓→

osakagaku6.jpg安居天満宮→

osakagaku7.jpgここは幸村最期の地だと言われています。

osakagaku4.jpg谷の清水→

osakagaku9.jpg庚申堂→

四天王寺南大門→四天王寺中の門 そして解散。

終わったのは4時半でした。

osakagaku5.jpg説明をされる旭堂南陵師匠

 

【2009/05/06 18:46 】 | 歴史 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
予告だけ(苦笑)

3日、大坂夏の陣!
4日、授戒潅頂
5日、玄奘三蔵会大祭

の記事を書きます。

こんなに出かけることがなかった私、もうね、へばってます(苦笑)
しかし、3日以外はどうしても行かなくてはならない用事。
いやはや、がんばります。

【2009/05/04 20:38 】 | 戯れ言 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
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