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奈良土産と言えば「奈良漬」
その歴史は古く、平城京の遺跡跡から出土した木簡の納品伝票に記載されていたそうで、当時から奈良漬(当時は粕漬けと言われていたようですが)は高級食材として存在していたようです。 しかしながら、食べた方はお分かりかと思うのですがお酒の弱い人なら、奈良漬のにおいを嗅いだだけで酔ってしまうと言う凄いもの(苦笑) 今では瓜だけでなく、キュウリやナスまでも奈良漬に変化し、そのほかウリ科の瓢箪、ごぼうと種類は様々。 形は変わっても奈良漬は奈良漬、ちょっとならまだしも、あれはなかなか食べきる事ができません(苦笑) 奈良漬に違和感のない私でさえ、残してしまう事もあります。 で、最近「西の京」に月2で行くようになり、必ず買い求めてゆくのがありまして、刻まれた奈良漬に金山寺味噌をあえたもので、ごはんに乗せて食べるのが好きなんですよ~。 「こうふく味噌」(一袋500円)と言います。 同じような手法で作られた「薬師味噌」というものがありますが、こちらは「こうふく味噌」よりも少し奈良漬の配分が多いような気がします。 どちらがお好みかは人それぞれ。 どちらも「西の京」で手に入ります。 「こうふく味噌」の会社は「三楽洞」 「薬師味噌」の会社は「本家寿吉屋」 【三楽洞】の支店でもある【大納言】といううどん屋さんが薬師寺から唐招提寺へ行く道にありまして、お昼を食べるついでに買い求めていきます。 【本家寿吉屋】は薬師寺南門前にあるんですけど、いつも駅から直で薬師寺に入ってしまうので、遠回りになる南門にはめったに出ないんですよね~。 車や観光バスで行かれると、南門から入る事になるのでお店は近いです。 【三楽洞】の本店は興福寺南円堂階段下にあるのですが、本来はお土産品やさんなのかな? ここに行くともうひとつ買うものがあります(笑) それは「あかしや」の筆。 写経用筆なんですが、1本1575円します(汗) しかしこれが書きやすい!! ほかにもいろいろ試してみました。これより高そうな筆も試しましたが、やはりこの「あかしや」の筆が一番書きやすい。 もう少しお手頃な1050円筆がありますが、どちらも書きやすいです。 あかしやHP→クリック しかし、筆は高いイメージがあるのでこれでも安い方なんだろうなと思われます。 PR |
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大阪・天王寺にある一心寺で、大阪の講談師の代表でもある旭堂南陵さんと共に「大阪の陣と幸村の娘」と題してイベントがあります。
予約制ですのでご紹介。 「大坂夏の陣で、徳川家康の本陣の旗を倒し、家康も死を覚悟したというほど獅子奮迅の活躍をした勇将・真田幸村。大正時代には「真田十勇士」「猿飛佐助」といった立川文庫の痛快無比の主人公として、子供たちの心のヒーローになりました。大坂の陣関連の旧跡を巡って、大阪を守ろうとして散った、兵(つわもの)の夢を追います。 ● 実施日時 5月3日(日) 12:30 ● 参加費用 1,500円(中学生以上) ※当日お釣りのないようにお持ち下さい。 ●集合場所 一心寺(最寄駅:地下鉄谷町線・四天王寺前夕陽ヶ丘駅) ● 所要時間 ● 定員 120名(要予約) 【大阪あそ歩からのお願い】 ・各コース定員で締め切りますので、早めにご予約ください。 ・キャンセルの場合はお手数ですがご連絡下さい。 ・スケジュールは天候や都合により変更・中止する場合があります。 ・歩きやすい服装と靴でご参加下さい。 ・車などに十分注意し、各自で責任をもって行動してください。 ご予約は下記予約または、大阪コミュニティ・ツーリズム推進連絡協議会までお電話ください。 06-6282-5930(受付時間 9:00~17:30) http://www.osaka-asobo.jp/bosyu/yoyaku.php?id=53 5月3日(日)」 |
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話が長くなりそうだったので観光編と称して第2弾です(苦笑) とにかく、雨が尋常ではなかった(汗) これは城に行く前に、どうしても寄りたいと言っていた「大納言塚」へは先に行くべきだろうと考え、近鉄「大和郡山」に降り立ちまずは西へ。 事前にNETで確認したものの、地図を持ってくるのを忘れてしまい、「だいたいこっち」と(苦笑)歩き始めました。 大納言塚とは豊臣秀長の御墓と言うか供養塚と言うか・・・。 このあたりに秀長の為に秀吉が大光院を建立しました。
秀長さんも大変です。死んでもまだ皆の為に頑張らなければならないのですから(苦笑)
その後、ここの「警察署はお城」と言う情報を聞いていたので「マジですか?」と
ところで「箱本」とはなんぞやと申しますと、郡山町中の自冶組織の事です。
雨は昼には上がり、あの雨はなんだったんだと・・・(苦笑) →クリック そしてもうすぐ始まる「お城まつり」 期間は3月27日~4月10日まで 詳しくはこちら→クリック |
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郡山城のある大和郡山、そこの昔の城主だった秀吉の弟、秀長さんに最近娘がはまっている所為(苦笑) 郡山のそばにいる親戚に以前「ここを城主は誰?」と質問したところ、 どっちも関係はあるけど間違っています。 郡山城は奈良の覇権を巡って、あの東大寺を焼いたと言う事で悪名名高くなった松永秀久と言う武将と闘っていた筒井順慶と言う戦国武将が、織田信長の力により奈良を獲得し、明智光秀の指揮のもと城郭を建てたのが始まりです。 筒井順慶と言えば嶋左近(笑)→クリック その後、織田信長がその光秀に暗殺され(本能寺の変)豊臣秀吉が天下を獲りますが、その頃にここ郡山城の城主を務めたのが豊臣秀長でした。 そして徳川の世になった頃、ここは水野、徳川、本多と城主を変えていきましたが、1724年(享保9年)に、あの犬公方と呼ばれた五代将軍・綱吉の側用人をしていた柳沢吉保の子、吉里が入城しました。
穏やかな暮らしをしていた秀長でしたが、秀吉の強引ともいえる勧誘で武士になりますが、武士と言えばその当時戦は避けて通れないものでした。 彼の名前が信長にも浸透していったのは、美濃(岐阜)の斉藤氏の居城・稲葉山城攻めの時でした。 蜂須賀小六と言えば秀吉の良き部下と言うイメージですが、実は彼が秀吉軍に入ったきっかけは秀長だったそうです。 その川並衆を束ねていたのが蜂須賀小六。 そんな秀長ですが、中国攻めの時、毛利との戦いで銀山に目をつけ但馬を自ら大将となって攻め落とします。その時決して力を誇らず、地元の国侍の領地をそのまま統治させるなどの寛容な対処をしたため、国侍たちはこぞって秀長に帰順したと言われています。その数は3000人余りだと言い伝えられています。この時秀長は但馬10万5000石を拝領することになったのでした。 書き出せばいろいろあるのですが、とにかく、秀長はそれなりに大将としての器もあり、万民を理解し、彼の誠実さに帰順する武士(高虎もその一人)も多かった人でした。あの千利休も彼がいたからこそ秀吉の傍に仕えていられたという話も残っています。 そんな秀長の最期が、この大和郡山だったわけです。
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