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【2025/08/16 10:33 】 |
奈良土産
奈良土産と言えば「奈良漬」
その歴史は古く、平城京の遺跡跡から出土した木簡の納品伝票に記載されていたそうで、当時から奈良漬(当時は粕漬けと言われていたようですが)は高級食材として存在していたようです。

しかしながら、食べた方はお分かりかと思うのですがお酒の弱い人なら、奈良漬のにおいを嗅いだだけで酔ってしまうと言う凄いもの(苦笑)
今では瓜だけでなく、キュウリやナスまでも奈良漬に変化し、そのほかウリ科の瓢箪、ごぼうと種類は様々。
形は変わっても奈良漬は奈良漬、ちょっとならまだしも、あれはなかなか食べきる事ができません(苦笑)

奈良漬に違和感のない私でさえ、残してしまう事もあります。

で、最近「西の京」に月2で行くようになり、必ず買い求めてゆくのがありまして、刻まれた奈良漬に金山寺味噌をあえたもので、ごはんに乗せて食べるのが好きなんですよ~。

「こうふく味噌」(一袋500円)と言います。

同じような手法で作られた「薬師味噌」というものがありますが、こちらは「こうふく味噌」よりも少し奈良漬の配分が多いような気がします。
どちらがお好みかは人それぞれ。
どちらも「西の京」で手に入ります。
「こうふく味噌」の会社は「三楽洞」
「薬師味噌」の会社は「本家寿吉屋」

【三楽洞】の支店でもある【大納言】といううどん屋さんが薬師寺から唐招提寺へ行く道にありまして、お昼を食べるついでに買い求めていきます。

【本家寿吉屋】は薬師寺南門前にあるんですけど、いつも駅から直で薬師寺に入ってしまうので、遠回りになる南門にはめったに出ないんですよね~。
車や観光バスで行かれると、南門から入る事になるのでお店は近いです。

【三楽洞】の本店は興福寺南円堂階段下にあるのですが、本来はお土産品やさんなのかな?
ここに行くともうひとつ買うものがあります(笑)

それは「あかしや」の筆。
写経用筆なんですが、1本1575円します(汗)
しかしこれが書きやすい!!
ほかにもいろいろ試してみました。これより高そうな筆も試しましたが、やはりこの「あかしや」の筆が一番書きやすい。
もう少しお手頃な1050円筆がありますが、どちらも書きやすいです。

あかしやHP→クリック

しかし、筆は高いイメージがあるのでこれでも安い方なんだろうなと思われます。

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【2009/03/24 18:11 】 | 他府県コラム | 有り難いご意見(2) | トラックバック()
ちょっとひと段落。
娘のためにたくさんの人が線香をあげにやって来てくれました。本当に友達に恵まれた子だったと今更ながらに思います。

kise-sakura_n12.jpg明日でちょうど1年ですね。
「桜」の一文字を戒名に貰っている子です。
桜は死んでしまった娘そのもののようにも思えます。

一気に花開いて惜しげもなく散ってしまった。

まるで「夢」のようです。
あの子が居たことも、あの子と過ごした年月も・・・。

今日降る雨はきっと「桜」を呼んでくれるでしょう。
そして咲きだしても試練のように雨が降ります。
その雨に負けて散ってしまう。

娘そのもののように思えて仕方がありません。

桜の季節は心待ちするほどうれしくもあり、切ない季節となりました。
【2009/03/22 17:40 】 | 偲ぶ | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
講談師と遊ぶ真田幸村(?)のイベントです。
大阪・天王寺にある一心寺で、大阪の講談師の代表でもある旭堂南陵さんと共に「大阪の陣と幸村の娘」と題してイベントがあります。

予約制ですのでご紹介。

「大坂夏の陣で、徳川家康の本陣の旗を倒し、家康も死を覚悟したというほど獅子奮迅の活躍をした勇将・真田幸村。大正時代には「真田十勇士」「猿飛佐助」といった立川文庫の痛快無比の主人公として、子供たちの心のヒーローになりました。大坂の陣関連の旧跡を巡って、大阪を守ろうとして散った、兵(つわもの)の夢を追います。

● 実施日時 5月3日(日) 12:30

● 参加費用 1,500円(中学生以上)
※当日お釣りのないようにお持ち下さい。

●集合場所 一心寺(最寄駅:地下鉄谷町線・四天王寺前夕陽ヶ丘駅)

● 所要時間

● 定員 120名(要予約)


【大阪あそ歩からのお願い】
・各コース定員で締め切りますので、早めにご予約ください。
・キャンセルの場合はお手数ですがご連絡下さい。
・スケジュールは天候や都合により変更・中止する場合があります。
・歩きやすい服装と靴でご参加下さい。
・車などに十分注意し、各自で責任をもって行動してください。


ご予約は下記予約または、大阪コミュニティ・ツーリズム推進連絡協議会までお電話ください。
06-6282-5930(受付時間 9:00~17:30)

http://www.osaka-asobo.jp/bosyu/yoyaku.php?id=53

5月3日(日)」
【2009/03/16 16:10 】 | お知らせ | 有り難いご意見(2) | トラックバック()
大和郡山(観光編)

話が長くなりそうだったので観光編と称して第2弾です(苦笑)

とにかく、雨が尋常ではなかった(汗)
どうしてこんな日に来なければダメだったのか、まったくの謎です。

これは城に行く前に、どうしても寄りたいと言っていた「大納言塚」へは先に行くべきだろうと考え、近鉄「大和郡山」に降り立ちまずは西へ。

事前にNETで確認したものの、地図を持ってくるのを忘れてしまい、「だいたいこっち」と(苦笑)歩き始めました。
奈良にはよくある事ですが、駅前通りといえど道が狭い。
しかも、奈良の人も「歩くより車派」が多いらしく、そして雨。その為に交通量も
大変なもの。
そんな中をテクテク歩いている私たちって・・・、とか思いながら、とりあえず覚
えている方角を目指して歩いて行きました。
どのくらいの時間だったか覚えていないのですが、さほど遠いとも思えない所で大
通りに出ました。
「たぶんここから右」
南に少し行くと「←大納言塚」と言う看板を発見。
凄いと自我自賛(苦笑)方向を示す看板通り細道を行くと、迷うことなく大納言塚
に到着しました。
しかし、ここもまた車がドンドン通って行く。
待ってくださいよ~(涙)車が一台通るのにやっとの道ですよ~?
そこを次から次へと・・・。
歩いているほうは命がけです(苦笑)

大納言塚とは豊臣秀長の御墓と言うか供養塚と言うか・・・。
実際はどっちなんでしょう。400年の時が定かではなくしているのはここだけで
はありませんが・・・。

このあたりに秀長の為に秀吉が大光院を建立しました。
そしてそこに秀長を埋葬したのでした。豊臣が滅びた後、徳川の領地となった郡山
をはばかったのか、藤堂高虎はこのお寺の院主が京都・大徳寺の和尚だった関係で大徳寺の塔頭として移し、彼の位牌を郡山にある「春岳院」で祀ってもらうようにしました。その後この墓は一時荒廃してしまったのですが、春岳院の僧侶の力で再建され五輪塔が建立されたのでした。
地輪には秀長の戒名である「大光院殿前亜相春岳紹栄人居士」と刻まれてありま

 

kouriyama8.JPG

春岳院


実はここ、お願い事が叶うと言うお話が・・・。
塚の横の立て看板には「お願いの砂  大和大納言秀長公は優しく賢く、とても立
派なお殿様で、今の大和郡山の基礎を築かれたお方であり『学問の智将』とも言われています。今日お参りで来たお礼を申し上げた後『自分の名前』と『願い事』を言いながら、門前の石の箱へ、三回お砂を通しますと、きっと願い事を聞いてくださいます。 合掌礼拝 平成八年三月吉日 大和大納言奉賛会」と書かれてありました。

kouriyama4.JPGそれがこれ。

秀長さんも大変です。死んでもまだ皆の為に頑張らなければならないのですから(苦笑)

kouriyama5.JPGその後、盆梅展を兼ねた多聞楼内部公開の為にお城に。子供の頃、郡山城にお城らしきものはなく、ただ石垣だけがあったと記憶していたのですが、どうやら復元されたようでした。
昭和62年に復元されたとか・・・。
天守閣の復元はと考えたのですが、なんと、天守閣があった場所は柳沢神社になっ
ております。
喪中のために神社の中には入れず全貌を見ることは出来なかったわけですが、神社
になってしまっているのならどうしようもないでしょうね~・・・。
五代将軍綱吉の時代に城主は柳沢家になったという話は前回に書きましたが、柳沢
の歴代の城主を神にして神社にしてしまうとは・・・。さすが明治政府(苦笑)なんだか明治政府だけが盛り上がっているようにも思える所業です。
そして、城の半分は学校になっており(郡山高校)「近鉄大和郡山駅」の西側に位
置するお城ですが、実は城内に入るにはいったん東側に出て、わざわざ線路を渡ってでなければ入れない状態になっております。
なんだかややこしい・・・。
西にあるから西から入れる場所もありますけどね。そこから入ると遠回りになるん
でっすよね~。

kouriyama6.JPG

「秀長」と名付けられた盆梅


見事な盆梅を鑑賞した後、「柳沢文庫」と言う文字にひかれて行ってみることにし
ました。
kouriyama7.JPG昭和35年、元毘沙門郭のあった場所に開設され、柳沢家から引き継がれた史料や
書物を保存している場所です。
ちょうど小さな展示会が行われており、「郡山城・城下町の歴史(3)」と言うタ
イトルでした。古写真などが興味深く、小さな展示会ですがなかなか内容の濃い展示会でした。そして小規模ながら本を自由に閲覧できるようになっており、名字辞典が結構揃っていて、思わず自分の名字を調べてしまいましたよ(苦笑)

その後、ここの「警察署はお城」と言う情報を聞いていたので「マジですか?」と

kouriyama9.JPG向かってみれば確かにお城(笑)



このお城の(笑)横にあった観光地地図を見て、藍染工房を目指すことにしました


kouriyama10.JPG郡山にはまだまだ江戸期のお家が点在しておりこの和菓子屋・菊屋もその一つ。そ
の当時の商店がそのまま残っております。ここには秀吉が名づけたと言われる「御城之口餅」が今も売られています。→クリック




kouriyama12.JPGさて、藍染工房「箱本館・紺屋」
元・染物屋をそのまま受け継ぎ資料館として経営している傍ら、藍染の体験が出来
る場所です(要予約)
見学ができると言う話でしたので染めの現場を拝見。
藍染って葉っぱを発酵させたものを使うのですね~、初めて知りました。
独特な香りの充満する工房で、そこの職員のがおっしゃっていました。
「生き物でしてね~、20人も一気に使うと死にかけるんですよ~」と(笑)
「もう無理!と言われるので慌てて蓋をして違う窯の染料を使う事をお勧めします
」とおっしゃっていました(笑)
染料が作られている窯は全部で6つ。それを会話しながら使うのですって。
結構長い間おしゃべりさせていただきました。雨だったのでお客さんも私とその染
物をされていた方の3人のみ。
その為か、工房の方のみならず、受付の人とも会話し続けて時間が・・・(苦笑)
「この雨の中を大納言塚まで行かれたのですか?」と驚かれたのですが、迷うこと
なく行ったと告げると、
「それはよう来たなと言われたんですよ」とおっしゃっていました(笑)
「だって、その傍にある金魚資料館に来るはずだった先生が雨の為に道に迷って中
止になったんですよ~?」と・・・。
そっから戦国武将の話で盛り上がり・・・(苦笑)
まずいまずい、ヲタまるだしですやん・・・・。

クリック

ところで「箱本」とはなんぞやと申しますと、郡山町中の自冶組織の事です。
税金免除の特権を与えられた内町13町(本町・今井町・奈良町・藺町・柳町・堺町
・茶町・豆腐町・魚塩町・材木町・雑穀町・綿町・紺屋町)で始まり、その任務は治安維持・消火・伝馬(公用の為に使用する馬を提供すること)などがあります。
この制度は町が交代でさまざまな対応が出来る住民自治の先駆と言われています。


そしてその後、傍で見かけた「おみやげ処 こちくや」に寄り道。
ここには金魚すくい道場なるものがありました(笑)
さすがにしませんでしたけど(笑)
戦国武将の名前が入ったお酒を集めている私はここで「秀長」と「順慶」を発見(
笑)思わず購入してしまいました。
そう、郡山は毎年「金魚すくい選手権」が行われる場所です。→クリック

HPを発見しました。CMがある!なんとローカル(笑)→クリック

「こちくや」の小竹とは秀長の幼少期の名前なんですって。
柳沢家ではなく筒井順慶と豊臣秀長をリスペクトしているのに好感触(苦笑)
kouriyama11.JPG


お店のテントには「秀長くん」が・・・(笑)このデザイン、確かNHKの「忍たま」
の絵を描いている方がしたとか・・・?






その他、焼き物も盛んに行われ、今に伝わる「赤膚焼」はここの名産です。
クリ
ック
赤膚焼の絵付け作品は、子供のころそんなに好きではなかったのですが、最近あの素朴さに魅入られています(笑)
なんとも癒し系な絵付けです。

雨は昼には上がり、あの雨はなんだったんだと・・・(苦笑)
赤膚焼も体験できるそうですよ。
今回行かなかったんですが、情報だけ。

クリック

そしてもうすぐ始まる「お城まつり」

期間は3月27日~4月10日まで

詳しくはこちら→クリック

【2009/03/13 20:03 】 | 他府県コラム | 有り難いご意見(3) | トラックバック()
大和郡山(歴史編)

kouriyama2.JPG1日だけ大雨だった6日の金曜日、なぜか「この日に絶対に行きたい」と言い切った娘の為に大和郡山まで行ってまいりました。

郡山城のある大和郡山、そこの昔の城主だった秀吉の弟、秀長さんに最近娘がはまっている所為(苦笑)

郡山のそばにいる親戚に以前「ここを城主は誰?」と質問したところ、
「織田信長」という返事が(笑)
すかさず他の親戚が「秀吉」だと訂正。

どっちも関係はあるけど間違っています。
えてして地元というものはそういうものでしょう(笑)

郡山城は奈良の覇権を巡って、あの東大寺を焼いたと言う事で悪名名高くなった松永秀久と言う武将と闘っていた筒井順慶と言う戦国武将が、織田信長の力により奈良を獲得し、明智光秀の指揮のもと城郭を建てたのが始まりです。

筒井順慶と言えば嶋左近(笑)→クリック
彼の上司だった人です。

その後、織田信長がその光秀に暗殺され(本能寺の変)豊臣秀吉が天下を獲りますが、その頃にここ郡山城の城主を務めたのが豊臣秀長でした。

そして徳川の世になった頃、ここは水野、徳川、本多と城主を変えていきましたが、1724年(享保9年)に、あの犬公方と呼ばれた五代将軍・綱吉の側用人をしていた柳沢吉保の子、吉里が入城しました。
その後、明治までここは柳沢家が統治していったのです。
その頃、この郡山は金魚の養殖地として名前を知られていきます。
なんでも吉里が金魚を持ち込み、それが人気を経て養殖という発展を遂げたのだそ
うです。


「城下町マップ」の説明を引用しますと、
710年(和銅3年)に藤原京から平城京に移され、都の南京終には羅城門が存在
し、この都の郊外には大宮人の為の保養所「薬園宮」がありました。
それは東大寺領清澄庄に属し、寺領「郡山」と呼ばれていたそうで、それが名前の
由来だそうです。

kouriyama1.JPGさて、話を元に戻し(苦笑)、秀長のお話を少し。
一言でいえば名君でした。
三重の「しろもちくん」のモデルともいわれる(苦笑)藤堂高虎の主君でもありま
した。藤堂家のお話と言えばこんなこともありましたね~→クリック
秀長についての資料があまり無いそうで、伝承が殆どらしいのですが、異父兄弟とも実の兄弟とも言われ、秀吉にとって唯一の血を分けた男の兄弟であることは確かだそうです。
秀長は秀吉ともども百姓の出で、本人も武士になることなど露とも考えていなかっ
たそうです。秀吉は秀長の幼いころにすでに家を飛び出しており、百姓家の唯一の男子として百姓家を切り盛りしていたそうです。
しかしながら秀吉が信長に仕え、秀吉の要望で補佐役として武士となりました。元
々表立ったことが好きではなかった性分らしく、徹底して補佐に回っていたそうです。

穏やかな暮らしをしていた秀長でしたが、秀吉の強引ともいえる勧誘で武士になりますが、武士と言えばその当時戦は避けて通れないものでした。
戦など経験していなかった秀長でしたが、信長の鵜沼城攻めの時、秀吉あわやとい
う場面で無我夢中デビューを果たします。
その時秀吉は「地獄に仏とはこのことか」と述懐したそうです。

彼の名前が信長にも浸透していったのは、美濃(岐阜)の斉藤氏の居城・稲葉山城攻めの時でした。
難攻不落な稲葉山城に手を焼いていた信長は秀吉の作戦に乗じます。
その時、水門から場内に潜入し、信長軍を招き入れたのは秀長率いる蜂須賀小六以
下部下7人でした。

蜂須賀小六と言えば秀吉の良き部下と言うイメージですが、実は彼が秀吉軍に入ったきっかけは秀長だったそうです。
美濃攻略の拠点として信長は墨俣に城を築こうと考えていました。しかしながら敵
軍の妨害などがあって難攻しておりました。そこで秀吉は川を使って築城しようと考えていたため、近辺の水利に通じていた川並衆の協力が必須となったのでした。

その川並衆を束ねていたのが蜂須賀小六。
彼を説得に向かった秀吉でしたが、敵地に身をさらして城を建てるという危険極ま
りないミッションになかなか協力するとは言わなかったそうです。
言葉巧みな秀吉が困っているのを横で見ていた秀長でしたが、ポツリポツリと「こ
のたび兄者は、墨俣築城が出きなければ命もないものと覚悟を決めております・・・」と話し始めます。それを黙って聞いていた小六は、「墨俣のこと、お引き受けいたします」と承諾したそうです。
言葉巧みな秀吉の言葉ではなく、秀長の誠実さにうなずいたと言われています。こ
うして出来たのが世に言う「墨俣の一夜城」でした。

そんな秀長ですが、中国攻めの時、毛利との戦いで銀山に目をつけ但馬を自ら大将となって攻め落とします。その時決して力を誇らず、地元の国侍の領地をそのまま統治させるなどの寛容な対処をしたため、国侍たちはこぞって秀長に帰順したと言われています。その数は3000人余りだと言い伝えられています。この時秀長は但馬10万5000石を拝領することになったのでした。

書き出せばいろいろあるのですが、とにかく、秀長はそれなりに大将としての器もあり、万民を理解し、彼の誠実さに帰順する武士(高虎もその一人)も多かった人でした。あの千利休も彼がいたからこそ秀吉の傍に仕えていられたという話も残っています。
当時の記録として有名な宣教師ルイス・フロイスの「日本史」にも彼の人柄の良さ
、礼儀の正しさの記述があり、彼の評価は海外でも高かったようです。
そんな秀長も病に倒れ、秀吉よりも先にこの世を去ります。
kouriyama3.JPG享年51歳。若すぎる死でした。
韓国出兵を最後まで反対していたのも秀長だったそうです。
彼の死後、秀吉は羅針盤を失ったかのようにさまざまな人が離れ、滅亡へと進んで
いくのでした。

そんな秀長の最期が、この大和郡山だったわけです。

 

【2009/03/13 14:33 】 | 歴史 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
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