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【2025/08/25 17:33 】 |
第44回 秋季京都非公開文化特別拝観

上賀茂神社【かみがもじんじゃ】 北区上賀茂
国宝本殿・権殿特別参拝(直会殿前内庭より)
神宝展示、他

※11/3に関しては、庁屋の拝観は高倉殿の拝観となります。 
10/31~11/9

大徳寺本坊【だいとくじほんぼう】 北区紫野(大徳寺山内)
国宝方丈
国宝唐門
重文襖絵
史跡・特別名勝庭園
10/31~11/9
※(11/3 拝観休)

真 珠 庵【しんじゅあん】 北区紫野(大徳寺山内)
重文方丈
重文庫裏
重文曽我蛇足筆襖絵
重文長谷川等伯筆襖絵
史跡名勝庭園、他
10/31~11/9

黄 梅 院【おうばいいん】 北区紫野(大徳寺山内)
重文方丈
重文庫裏
重文雲谷等顔筆襖絵
茶室「昨夢軒」、他
10/31~11/9
※(11/7 拝観休)

北野天満宮【きたのてんまんぐう】 上京区馬喰町
重文鬼神像
茶室「松向軒」
史跡 御土居、他

※11/9に関しては、松向軒の拝観は絵馬堂の案内となります。
10/31~11/9

慈 受 院【じじゅいん】 上京区堀川寺之内
本堂
庭園
大織冠絵巻
源氏物語ゆかりの寺宝(明石・須磨図屏風)、他
10/31~11/9 

廬 山 寺【ろざんじ】 上京区寺町広小路
元三大師堂
御本尊元三大師坐像
本堂
本堂前庭「源氏の庭」
源氏物語ゆかりの寺宝(住吉廣尚画「若紫」等)、他
 
10/31~11/9
※(11/3 午後休)

下鴨神社【しもがもじんじゃ】左京区下鴨
 重文橋殿
重文細殿
重文大炊殿
御車舎
10/31~11/9

法 然 院【ほうねんいん】 左京区鹿ヶ谷
本堂
方丈
庭園
本尊阿弥陀如来坐像
重文狩野光信筆襖絵
堂本印象筆襖絵、他
11/1~11/7
※(10/31、11/8、11/9 拝観休)

白沙村荘【はくさそんそう】 左京区浄土寺
持仏堂
橋本関雪作未公開作品
重文地蔵菩薩像
名勝池泉回遊式庭園、他
 10/31~11/9

金戒光明寺山門・阿弥陀堂
【こんかいこうみょうじさんもん・あみだどう】 左京区黒谷
府指定文化財 阿弥陀堂
府指定文化財 山門二層内部
御本尊阿弥陀如来像
釈迦三尊像
十六羅漢
蟠龍図、他
 10/31~11/9

南 禅 院【なんぜんいん】左京区南禅寺
方丈
重文亀山法皇坐像
瑠璃燈
史跡名勝庭園、他
10/31~11/9
(11/2,9 及び11/8 午後拝観休)

尊勝院【そんしょういん】 東山区粟田口(青蓮院山内)
市指定文化財 本堂
本尊元三大師像
米地蔵尊
千手観音坐像
毘沙門天立像、他 諸仏多数
 
10/31~11/9

知恩院三門【ちおんいんさんもん】 東山区知恩院
国宝三門二層内部
釈迦牟尼坐像
十六羅漢像
白木の棺(知恩院七不思議のひとつ)
10/31~11/9 


東福寺三門【とうふくじさんもん】 東山区東福寺
国宝三門二層内陣
釈迦如来坐像
十六羅漢像
10/31~11/9

東寺五重塔【とうじごじゅうのとう】 南区九条大宮
国宝五重塔初層内部
如来・菩薩像 計12体
 10/31~11/9

仁和寺金堂・観音堂【にんなじこんどう・かんのんどう】右京区御室
 国宝金堂
重文観音堂
阿弥陀三尊像
千手観音像
二十八部衆像、他
11/3~11/9※
(10/31~11/2 拝観休)

佛教大学宗教文化ミュージアム 右京区嵯峨広沢
『浄土宗大本山・清浄華院の寺宝展』
・狩野永納筆「泣不動縁起」
・山越阿弥陀図
・宝冠釈迦如来坐像
・秋葉権現立像
・茶枳尼(だきに)天騎狐像、他
10/31~11/9

神 護 寺【じんごじ】 右京区高雄
重文大師堂
板彫弘法大師像(大師堂御本尊)、他
10/31~11/9 

・期 間  平成20年10月31日(金)~11月9日(日)
※「大徳寺本坊」につきましては、11月3日のみ拝観休となります
※「黄梅院」につきましては、11月7日のみ拝観休となります
※「廬山寺」につきましては、11月3日午後のみ拝観休となります
※「南禅院」につきましては、11月2日・9日 及び 8日午後のみ拝観休となります
※「法然院」につきましては、11月1日~11月7日まで七日間のみの拝観となります
※「仁和寺金堂・観音堂」につきましては、11月3日~11月9日まで七日間のみの拝観となります
・時 間  午前9時~午後4時まで

・拝観料  1ヶ所 大人800円 中学生・高校生400円

※小学生以下のお子様については、保護者同伴につき拝観料は頂戴しておりません。
※「神護寺」については、中高生料金を設けておりません。
※「東寺五重塔」については、高校生700円・中学生以下(小学生以下のお子様含む)
  500円の拝観料を申し受けております。


 

※「第44回秋季京都非公開文化財特別拝観」については、(財)京都古文化保存協会 事務局【075-561-1795】までお問い合わせ下さい。
※この期間に限り、前もっての申し込みや予約は必要なく、各寺院の受付で拝観券を買っていただくだけでご拝観いただけます。(団体の場合は(財)京都古文化保存協会 事務局までご一報ください。)
※拝観料は文化財の維持管理に充当されます。

 
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【2008/10/28 10:50 】 | お知らせ | 有り難いご意見(2) | トラックバック()
彦根着ぐるみサミット

yuru70.jpg


土曜日は彦根におりました(苦笑)
予想以上の人出にビックリです。
今日もあるのですが、土曜日にしようと話し合って行って正解でした~。
日曜日だったら雨でダメだったかも知れませんものね~。

登場キャラはフォトアルバムにあっぷしました。

その1

その2

しかし、話題のせんとくん、凄い人だかりになってましたよ(笑)

【2008/10/26 18:27 】 | 他府県コラム | 有り難いご意見(3) | トラックバック()
縁の下
「縁の下の力持ち」と言う言葉があります。大阪では「縁の下の舞」とも比喩されます。
その語源となったものを22日に見て参りました。

22日はあいにくの雨、「こんな事はかつて無かった事です」と司会の方が申しておりました。司会?違うな、教授というか歴史研究者?そんな方でした。
その前代未聞の状況下で私は初めて「縁の下の舞」なるものを見てきました。


場所は大阪四天王寺太子堂。
経供養の為の行事です。
本来は横の庭で執り行われる行事でして、太子堂の縁の下で舞われるのでこう呼ばれているのだそうです。
そして、言葉の語源となった意味は、高貴な方はお堂の中にいらっしゃり仏行事を執り行っており、その華を添える為に庭先で舞楽が舞われた。
当然、高貴な方々の目に触れる事もない位置での舞楽ですので、こう例えられたのだそうです。
この舞は元々非公開の舞楽でして、その所為で世間にあまり知られることなく時を刻んで参りました。しかしながら近年、舞楽の保存も兼ねて公開されるようになり、一般市民の皆様にも無料でご覧頂けるようになったとおっしゃっていました。

今年の舞は「縁の下」ではなく「堂内の舞」になっておりました(笑)
静寂な堂内に朗々と響き渡る僧侶たちの声明。これがまた耳障りが良くて眠ってしまいそうです、もとい、荘厳なイメージを湧かせます。
良い声をなさってましてね~、皆さん。
どのくらいいらっしゃいましたかね~、ザッと10人はいらっしゃって居ました。その数で一斉に声明を唱えるのですから凄いですよ。
まぁ、後半「錫杖」をジャランジャランと鳴らされましたので眠気も覚めますが(苦笑)元々、そういう意味もあるそうです(笑)

声明の合間合間に舞われるのが舞楽でして、全部で4演目。

最初は場を清めるという意味合いで金銀の鉾を振り回して舞われる「振鉾(えんぶ)」二人舞。
いやはや、堂内でのこれは少々きつそうでした(笑)
ヘタに振り回すと天上からつり下げられてある、あれはなんというものなのでしょう、金飾りの笠?あれに引っかけてしまうわけですから(苦笑)
しかも舞台が室内なので坊様達と面位置の高さですから、足を振り上げるのも気を遣いながらの作業でした。坊様達も「おっと」という風に身体が傾ぐ(苦笑)

次の演目二種は「春庭花(しゅんていか)」「承和楽(しょうわらく)」
どちらも4人舞です
この二つは王朝時代の武官の衣装で舞われる舞でして、どちらも菩提成仏を祈るものです。

衣装を見つつつ、つらつら思っていたのですが、雅楽の衣装というのは派手なようですが実は実にセンスが良い。
無地の生地に小紋が点在した色違いの衣装を重ね合わせているだけですのに、品良く華やかに見えます。
そして束帯姿の武官の冠。
京都・葵祭でも思ったのですが、その時代、頭に生花を挿すのは女性ではなく男性の方でした。
季節折々の生花を頭に刺して着飾っていたわけです。
「万葉集」の中にもあったように思いますが、歌が出てきません(苦笑)
ゆりの花を頭に刺しながら、仲間同士でお酒を酌み交わしていたと言う内容でしたっけね~。
この日の花は小菊でした。

そして行事は滞りなく終わり、最後はまぁ、お開きですから気楽にと言う意味合いも兼ねて、もう一演目が舞われます。
これは毎年違う演目になるようですね。
nasori3.jpg今回は「納蘇利(なそり)」
納曽利とも書くそうですが、頂いたパンフレットにはこう書かれてありましたので、蘇と書きます。
雌雄の龍が昇天する様を舞っていると言われており、二人で舞われます。






ran.jpgこの演目は人気なのか、一番人気の「陵王」の番舞(つがいまい)としてもよく知られているのだそうです。
場所によっては1人で舞われる場合もあるそうですが、二人で舞われるのが正しいのだそうです。






nasori2.jpgまぁ、堂内で舞われる舞楽というのもなかなかおつなものでしたが、ただ、雅楽の楽器の音色というものは、今回の場合かなりの人数の楽士たちがおりましたもので(20人はいたような・・・)、堂内ではちょ~~~っとうるさいかも(苦笑)
なにせ、お経なら浪々と響くに持ってこいな訳ですが、雅楽の音楽では響きすぎて乱反射のように音が飛び交います(苦笑)
今度は外で見学したいです(笑)

ちなみに、堂内なので写真撮影は常識的にもダメですし、そうおっしゃっていましたが・・・、気にしないで写しまくりな爺様ばあさまおばさまおじさま方・・・(汗)
ほんと、行儀が悪いのは若者ではなくこの人達の方が多い事に良く遭遇し、悲しい気持ちになりました。

ran2.jpg四天王寺では1年に3回舞楽を見る事が出来ます。
この図で日にちが解りますので、参考にどうぞ。
よく分かるようにちょっとファイルが重いのでよろしくです~。
【2008/10/23 19:14 】 | 大阪コラム | 有り難いご意見(3) | トラックバック()
関ヶ原
日曜日に急遽関ヶ原まで行ってきました。
seki1.jpgこれがあったんですよ。関ヶ原町市政80周年記念として今年は特別でして、全国から武将を募り、自費でここまでやって来たという兵ども総勢130人。
東西に別れて合戦模様を再現されていました。
いやはや、若いお嬢さんの多い事多い事(笑)
私のようなおばさんのミーハーは居ないとは思うけれど、若いお嬢さんは多分ゲームの影響か?とか思ってしまいました(笑)
戦国関係のお店もこんなにあるのかと思うほどブースが出ていて驚きっぱなしでした(笑)
ea492447.jpegまずはこれで盛り上がり(笑)、左から滋賀県浅井町のマスコットキャラ「お市ちゃん」勿論、信長の妹の市がモデルでございます。続いて彦根のしょうぶ通りマスコットキャラ「さこにゃん」戦国武将、島左近がモデル。続いて同じく彦根しょうぶ通りマスコットキャラ「みつにゃん」戦国武将、石田三成がモデル。そして最後は関ヶ原町のマークの入った兜を被っているので関ヶ原のキャラだろうと思うのだけれども、誰なのか解りません(汗)
95600aa3.jpeg場所はここ、関ヶ原での石田三成の陣となった笹尾山。のろしが上がっておりますが、関ヶ原合戦ののろしの実演をやっておりました。


この石田三成陣跡の下にある馬防策周辺に東西の軍が集結しておりました。
ザッと撮せた武将だけアップしますと・・・。


【2008/10/22 21:27 】 | 他府県コラム | 有り難いご意見(104) | トラックバック()
東洲斎写楽
NHKの写楽を取り扱った番組を見ていたのですけど、ちょっと江戸の粋を感じましたね~(笑)
syaraku.jpg独特なデフォルメで世界中に知られた浮世絵師でありながら、その素性が謎であるばかりか、デビューして僅か1年で消えてしまった謎の絵師。
以前、展覧会に行って「写楽は歌麿より絵がうまい」とブログに書いた・・・?かもしれませんが(苦笑)、とにかく、うまかったんですよ。写実的というか、特徴を良くとらえていて躍動感がある。
歌麿のような「サザエさんタイプの絵」では無かったんですよね~。

さて、その写楽ですが、研究者の半分が彼は八丁堀に住んでいた阿波の能役者・斉藤十郎兵衛だと言っておられます。
その根拠は写楽の死後60年ぐらい経った時に活躍していた時代考証学者・斉藤月岑が「浮世絵類考」と言う中で記載されていた事が元となっております。
しかしながら、斉藤十郎兵衛と言う人物が本当に居たのか否か、また、半世紀も経ってからどうして写楽の記載があったのかと言う話でした。

で、このNHKで放送されていたのは全国の写楽研究者の話をまとめている形を取っておりまして、ますます、写楽は能役者であったのではないかと思えてきたのですよ。
○江戸の文化人名簿の『諸家人名江戸方角分』の八丁堀の項目に「写楽斎 地蔵橋」との記録があるが、その本名の記載は無かった。
○斉藤十郎兵衛という名前は能役者名鑑に載っている。
○斉藤家の菩提寺には57歳で亡くなったという過去帳も現存している。
○阿波の江戸藩主が写楽登場時代、丁度1年の間、江戸から阿波に行っており留守にしていた。
○写楽が消えた後30年後の江戸の住民地図に、八丁堀・地蔵橋には斉藤なにがし(すみません、名前を忘れました(汗))の名前が記載されている。
○その後、斉藤なにがしが斉藤十郎兵衛の息子である事が判明。
○写楽の描く役者絵は能面に似ている。

とまぁ、色々出て参りまして、斉藤十郎兵衛が写楽なのではないかという説が強まって参りました。

その時代、能役者は歌舞伎役者とは身分が違っていました。
歌舞伎役者は「河原者」と呼ばれ、町民より身分が低かったのですよ。しかし能役者は昔から武士に重宝され「武士」と言う位を貰っておりました。
武士という身分の者が、町民文化の歌舞伎の浮世絵師であると言う事は許される事では無いのでしょう。
ですので、素性は隠さなくてはならなかった。

写楽が活躍していた年、藩主が留守で能役者の仕事が無かったのかも知れないと推測されていました。
その暇な年、かねてより好きだった絵師を期限付きで始めたのではないかと言われています。

そしてここですよ(笑)
きっと周囲の人間は写楽が何ものなのか知っていたはず。
勿論、歌舞伎役者自身も知っていたはず。
なのに誰も彼が何ものなのかを明かさなかった。
斉藤月岑が半世紀経ってから素性を明かしたのは、「もう、知られてもお咎めはないであろう」と思ったからであろうと言われており、この事を知って、
「江戸の粋」だと思ったんですよ~。
世間が写楽を守っていた。
それほど彼は人気があったのか、「こんな事をバラして写楽に迷惑をかけるなんざぁ無粋だぜ」と思ったのか、当時の江戸の意気込みというか、町人文化の結束の堅さというか、そんなものを感じてしまってホッコリとしてしまいました(笑)

【2008/10/15 20:17 】 | 戯れ言 | 有り難いご意見(7) | トラックバック()
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