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滋賀県不破郡関ヶ原町です。
ここに行って初めて知ったのですが(実際にはその場所まで行けませんでしたが)ここに、『不破関』(旧中山道)があった事からこの名前が付きました。 『不破関』とは壬申の乱の時に、天武天皇が作った関です。 この時代の話は不得手ですので(苦笑)ウィキペディアにお任せするとして(ヲイヲイ)この関を作った事で東から兵を動員する事が出来、彼は勝利したワケです。 この事から、 不破関の東を『関東』と呼び、西を『関西』と呼ぶようになったと言われている場所です。 昨日の記事でも書いたように、『関ヶ原の乱』は通称・『天下分け目の戦』と言われていますが、二通りの意味があったんですね~。 文字通り、「天下取りの戦」と、「東と西との境目での戦」と言う意味。 PR |
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「日帰りコラム」の更新が止まっている為、ここで書いたものを再掲載しようと考えています。
その第1弾 『長浜』コラム 長浜のコラムは書いた事がありますが、追記という事で。 現存する駅舎としては日本最古なのだそうです。 詳しくはこちらで。 この旧長浜駅をモデルに現代風に建てたようですね。なかなか開放感があって、おしゃれで素敵な駅になっていました。 左図はそれまでの長浜駅でして、実は黒壁スクエアに行くには改札を出てそのまま歩いていけばよかったのですが。湖の方角にある長浜城に行くには、もう一度駅の階段を上り下りして反対側の出口に行かなくては行く事が出来ませんでした。つまり湖側の改札が無かったんですよ。 足の辛い人にはなかなか面倒な作業でした。 しかし、新しくなってそれも解消し、今ではバリアフリーの快適な駅になっていました。 こういった古い駅も趣があって良かったんですけどね。琵琶湖線(琵琶湖を一周する)が開通になるのと同時に駅も綺麗にしたのでしょうね。まぁ、NHK大河の「功名が辻」のおかげかも知れませんが(笑) さて、長浜と言えば豊臣秀吉です。 昔は「今浜」と呼ばれており、最初からここに町があったわけでは無いのです。 この辺りは前のコラムでも書きましたが・・・・。 右図は「長浜」の名前の由来となった竹中半兵衛の詩です。竹中半兵衛とは、秀吉がまだ「羽柴」と名乗っていた頃、最初の彼の軍師となった人ですが、病気を患い、彼は秀吉の長浜時代、中国地方攻めの時、陣中で亡くなっています。秀吉が京都で養生するようにと進めたのですが、彼は戦場で死ぬのが武士の本懐と頑として聞かなかったそうです。彼のお墓は岡山にあると聞きました。 和歌に詳しくないので意味は分かりませんが、 【君が代も我よも供に長濱の 真砂のか須の つき屋らぬまで】と書かれてあります。 長浜には『豊国神社』があります。この神社は全国に5ヶ所あるそうですよ。その一つが京都の秀吉の墓所前にある『豊国神社』 そして現大阪城内にある『豊国神社』、それからここ。 そして石川県。加賀の前田利家は秀吉とは親友だったんですよ。しかし徳川家康の手前それをおおっぴらには出来なかった。だから、こっそりと祀っていたとの事でした。でも今はちゃんと大々的に神社として存在しています(あたりまえ) そして名古屋にあります。ここは秀吉の祖国ですからね~。あっても不思議じゃない(笑) 余談ですが、娘が『豊国神社』に行く度に瓢箪の根付けを買って帰るんです。 しかし携帯電話につけている為か、同時につけているお札の力か、いつも壊れてしまいます(苦笑) やはり、本物の神様には勝てないという事でしょうか。 ここは東照宮の根付けも試してみたいところですが、娘は家康が大嫌い(苦笑) 絶対に実現はしないでしょうが(笑) 神社内には加藤虎之助清正の銅像が建っています。右側の石は「虎石」 加藤清正は秀吉が引き取って育てた子供です。その子供の頃のお話し、清正が城内の庭に投げ込んだ石を「虎石」と呼び、大事にしていたとか・・・・。まぁ、それ程までに秀吉は清正を寵愛していたと言う事を言いたかったのではないかと思われます。しかしですね、この「虎石」子供が投げ込めれる大きさではありません(苦笑)大人でも無理でしょう。 なにやら弁慶伝説を思い出しましたよ(笑)加藤清正と言えば「虎退治」で有名ですが、勇ましいイメージがあるのでしょうね。実際に虎退治をしていたのは彼だけでなく、三成だってやらされていたんですよ(笑)ただ、彼が有名になったのは、彼の娘さんが嫁に行く時、その時に捕った虎の頭骨を嫁入り道具に持たせた為、それが今に残っている所為ではないかと思われます。 嫁入り道具に虎の頭骨・・・・。何か、意味があったのでしょうか・・・・。 この「虎石」、伝説がありまして、江戸中期、長浜大通寺の庭に、長浜城中よりこの石を移したところ、毎夜「いのう、いのう」と泣いたそうです。「いのう」とは奈良でも使う方便ですが「帰ろう」という意味。 それで慌てて元に戻したそうです。しかし、何故それがここに?ここでは泣かなかったという事でしょうか(笑) そしてこのお寺は実はこの門しかありません。本堂と呼べるものはあるのですが、どうも火災にあって無くなってしまったようです。 今、募金を募って本堂建設をしようと試みているようでした。 で、ココなのですが、豊臣秀勝のお墓があります。 秀勝という名前は、実は3人おりまして、豊臣秀勝が二人、羽柴秀勝が1人。 有名なのは羽柴秀勝で、この子は織田信長の4番目の息子で御座いまして、秀吉が信長に頼み込んで養子に向かえたというエピソードが残っております。 そしてもう1人の豊臣秀勝とは、秀吉の姉の子供ですが、秀吉に世継ぎがいないと言う事で向かえた養子、秀次の実の弟になります。彼もまた兄と共に秀吉の養子になっていたようですね。 その最初の嫡男・幼名「石松丸」のお墓がここにありました。 このお墓は学術的に調査され、秀吉の書簡もあり、ほぼ間違いないだろうとされています。それにしても、秀吉のイメージはもの凄い「子煩悩」なのですが、それにもかかわらず、跡取りには恵まれなかったんですね。なんだか無情を感じます。彼の嫡男がいたら、この世はどう変わっていたのでしょうかね~。まぁ、これも歴史の流れなのでしょうか。なんとなく、家康の天下以外に考えが及ばないというのが、自分的に情けないのですが(苦笑) みなさまはどう、思われますか? |
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