忍者ブログ
  • 2025.04«
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • » 2025.06
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

【2025/05/29 06:56 】 |
関ヶ原

seki8.jpg
石田三成陣跡よりの風景

滋賀県不破郡関ヶ原町です。
ここに行って初めて知ったのですが(実際にはその場所まで行けませんでしたが)ここに、『不破関』(旧中山道)があった事からこの名前が付きました。
『不破関』とは壬申の乱の時に、天武天皇が作った関です。
この時代の話は不得手ですので(苦笑)ウィキペディアにお任せするとして(ヲイヲイ)この関を作った事で東から兵を動員する事が出来、彼は勝利したワケです。

この事から、
不破関の東を『関東』と呼び、西を『関西』と呼ぶようになったと言われている場所です。

昨日の記事でも書いたように、『関ヶ原の乱』は通称・『天下分け目の戦』と言われていますが、二通りの意味があったんですね~。
文字通り、「天下取りの戦」と、「東と西との境目での戦」と言う意味。
PR
【2007/10/08 14:57 】 | 他府県コラム | 有り難いご意見(4) | トラックバック()
太秦零れ話

太秦映画村と言えば、ちょっと前は高齢者の団体で持っているテーマパークのイメージがありました。
segoku15.jpg
segoku14.jpg
まぁ、このメニューはその名残かしら?(笑)








segoku13.jpgそのうち新選組に若い女性が反応し(笑)こーゆーのもメニューに載るようになりました(笑)
まぁ、新選組は昔から人気はありましたけどね(笑)
何度も映画やドラマで繰り返し映像化されましたし。
しかし、特撮が人気になり、子供より若いお母様に大人気(笑)
ここへの動員数というか、毛色が変わってきましたね~。






segoku17.jpgしかし、やはり私の世代はこれかなぁ~(笑)

segoku8.jpg



まさかこれで新たなる客層を広げるとは、思いもつきませんでしたけど(笑)





おまけ・・・。

segoku16.jpg

海外向けのタイトル?
なんか間違ってません?(笑)

【2007/10/01 22:12 】 | 他府県コラム | 有り難いご意見(5) | トラックバック()
太秦戦国祭2

segoku3.jpg


京都・太秦へ行ってきました。
太秦戦国祭2」にです(笑)
結局、2番目の娘がリタイヤしたので3番目と私とで上洛(苦笑)
2度目の参戦となりました(笑)

segoku2.jpg
でも今回は前回と違って、武者行列の面々も参加。
なかなか迫力ものでした(笑)
もう、うっかり(苦笑)この日に訪れた海外のお客様はビックリ状態(笑)
武者行列だけなら有りでしょうが、コスプレまで見れたのですからお徳?(笑)もう、大はしゃぎでカメラマンをなさってました(笑)



segoku4.jpg実はこの日、私が見損なってしまった彦根の佐和山一夜城で行われていた寸劇が披露されていまして(笑)この日は、この祭の体質上(苦笑)ゲームの「戦国BASARA」をイメージして大アレンジ(苦笑)もう、伊達政宗の衣装がそのまんまです(苦笑)だって、関ヶ原の戦いで居ないはずの伊達政宗が大乱入。しかも居ないはずの雑賀衆・雑賀孫市も参戦(笑)伊達に家康が殺され、天下は大逆転(苦笑)石田三成の大勝利に終わっていました。
そこは、ほら、佐和山が主人公ですので、ね(笑)
観客から黄色い声援がバンバン飛んでおりまして(苦笑)片倉小十郎や嶋左近が殺されると大ブーイング(笑)

segoku5.jpgしかし観客は女性客ばかりではありません(笑)そこで、この左近(手前)と三成(奥)の軍会議では?「ガンダム」での名優(笑)ギレンの演説のパロを大披露(笑)最後はやはり・・・、

あえて言おう!カスであると!

と名セリフで決めていました(笑)


segoku6.jpg

さて、彼、伊達政宗役の彼ですが、寸劇途中から柄が悪くなり、「BASARA」の伊達になりきり(笑)英語も必死で覚えて話していましたが、途中で前立ては外れるアクシデントで思わず失笑を買ってました(苦笑)
背も高く見栄えも良いのに~、ここぞという場面でこける所は愛嬌ですか?(笑)





segoku7.jpg


でも、個人的には家康役をされてたこの方が大好きです(笑)






segoku8.jpg

コスプレイヤーの皆様


segoku9.jpgさて、この日はもちろん彦根のさこにゃんも登場(笑)
これはポシェット。なんだか色々装飾が増えててみんなから「かわいい~~~~!!」と大絶賛(笑)
ちゃんと殿(石田三成コト、みつにゃん)のバッチも手作りで付けられていました(笑)もちろん、市販のピンバッチも付いてます(笑)
ところで、このさこにゃんの刀はポシェットにくっついているのかしら?(笑)
しかし、このさこにゃん・・・・。
上記の伊達政宗に誘われ・・・・。

【2007/09/30 22:52 】 | 他府県コラム | 有り難いご意見(3) | トラックバック()
貴船

kihune1.jpg秋が来ますね。紅葉の季節が目の前にやって来ています。ここ数年、「今年の紅葉は色が悪い」と言ってばかりいる気もしますが(苦笑)
この写真は叡電(叡山電鉄)『貴船口』駅の様子。
去年のものですけどね。
貴船は京都で言えば昔から避暑地扱いされているところでして、京都市中より1-2度?もっとかな?温度が低いんです。
ですので、秋が来るのも早く、紅葉も見事です。

かつて、「貴船」は「気生根」と書かれ大地の「気」が生まれ、湧きいずる場所とされてきました。そして平安期には賀茂川の源流のこの地に貴船神社を建て、都の水を司る神として朝廷も崇めていました。

kihune2.jpg叡電には「パノラマカー」と言う電車が走っておりまして、窓に顔を向くようにして座る座席があります。外の風景を行くまでに堪能出来るんですよ。
紅葉の時期は本当に美しいです。
でも、お客様も一杯(苦笑)

kihune3.jpg『貴船口駅』から貴船までバスは出ています。この時刻表を参考にして下さい。私のお薦めは実はこれ以前にこちらに着く事を勧めています(笑)
何故かというと、このバスに乗られて来られる観光客が殆どでして、バスが着く時間帯辺りから人が増えるんです。
駅から貴船神社まで歩いても30分ほどなんですよ。
左図の写真はその道。
なかなかなものでしょう?
歩いて行くのもまた一興(笑)
でも、まぁ、朝早くから来られない方はバスが良いかと・・・。乗車時間は4分くらいですし。

kihune4.jpg
貴船の朝はとても静か

【2007/09/25 12:53 】 | 他府県コラム | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
豊臣秀吉の子供
「日帰りコラム」の更新が止まっている為、ここで書いたものを再掲載しようと考えています。

その第1弾
『長浜』コラム

長浜のコラムは書いた事がありますが、追記という事で。

naga2_1.jpg新長浜駅です。

naga2_2.jpg今年になって出来上がったのかな?この駅のモデルになっているのが右図の旧長浜駅です。明治15年に北陸線の始発駅として建設された初代の長浜駅でして『長浜鉄道スクエア』に保存されています。
現存する駅舎としては日本最古なのだそうです。

詳しくは
こちらで。

この旧長浜駅をモデルに現代風に建てたようですね。なかなか開放感があって、おしゃれで素敵な駅になっていました。

naga2_3.jpg
左図はそれまでの長浜駅でして、実は黒壁スクエアに行くには改札を出てそのまま歩いていけばよかったのですが。湖の方角にある長浜城に行くには、もう一度駅の階段を上り下りして反対側の出口に行かなくては行く事が出来ませんでした。つまり湖側の改札が無かったんですよ。
足の辛い人にはなかなか面倒な作業でした。
しかし、新しくなってそれも解消し、今ではバリアフリーの快適な駅になっていました。

こういった古い駅も趣があって良かったんですけどね。琵琶湖線(琵琶湖を一周する)が開通になるのと同時に駅も綺麗にしたのでしょうね。まぁ、NHK大河の「功名が辻」のおかげかも知れませんが(笑)

naga2_4.jpg
さて、長浜と言えば豊臣秀吉です。
昔は「今浜」と呼ばれており、最初からここに町があったわけでは無いのです。
この辺りは前のコラムでも書きましたが・・・・。
右図は「長浜」の名前の由来となった竹中半兵衛の詩です。竹中半兵衛とは、秀吉がまだ「羽柴」と名乗っていた頃、最初の彼の軍師となった人ですが、病気を患い、彼は秀吉の長浜時代、中国地方攻めの時、陣中で亡くなっています。秀吉が京都で養生するようにと進めたのですが、彼は戦場で死ぬのが武士の本懐と頑として聞かなかったそうです。彼のお墓は岡山にあると聞きました。
和歌に詳しくないので意味は分かりませんが、
【君が代も我よも供に長濱の 真砂のか須の つき屋らぬまで】と書かれてあります。


naga2_5.jpg

長浜には『豊国神社』があります。この神社は全国に5ヶ所あるそうですよ。その一つが京都の秀吉の墓所前にある『豊国神社』 そして現大阪城内にある『豊国神社』、それからここ。
そして石川県。加賀の前田利家は秀吉とは親友だったんですよ。しかし徳川家康の手前それをおおっぴらには出来なかった。だから、こっそりと祀っていたとの事でした。でも今はちゃんと大々的に神社として存在しています(あたりまえ)
そして名古屋にあります。ここは秀吉の祖国ですからね~。あっても不思議じゃない(笑)
余談ですが、娘が『豊国神社』に行く度に瓢箪の根付けを買って帰るんです。
しかし携帯電話につけている為か、同時につけているお札の力か、いつも壊れてしまいます(苦笑)
やはり、本物の神様には勝てないという事でしょうか。
ここは東照宮の根付けも試してみたいところですが、娘は家康が大嫌い(苦笑)
絶対に実現はしないでしょうが(笑)

naga2_6.jpg

神社内には加藤虎之助清正の銅像が建っています。右側の石は「虎石」
加藤清正は秀吉が引き取って育てた子供です。その子供の頃のお話し、清正が城内の庭に投げ込んだ石を「虎石」と呼び、大事にしていたとか・・・・。まぁ、それ程までに秀吉は清正を寵愛していたと言う事を言いたかったのではないかと思われます。しかしですね、この「虎石」子供が投げ込めれる大きさではありません(苦笑)大人でも無理でしょう。
なにやら弁慶伝説を思い出しましたよ(笑)加藤清正と言えば「虎退治」で有名ですが、勇ましいイメージがあるのでしょうね。実際に虎退治をしていたのは彼だけでなく、三成だってやらされていたんですよ(笑)ただ、彼が有名になったのは、彼の娘さんが嫁に行く時、その時に捕った虎の頭骨を嫁入り道具に持たせた為、それが今に残っている所為ではないかと思われます。
嫁入り道具に虎の頭骨・・・・。何か、意味があったのでしょうか・・・・。
この「虎石」、伝説がありまして、江戸中期、長浜大通寺の庭に、長浜城中よりこの石を移したところ、毎夜「いのう、いのう」と泣いたそうです。「いのう」とは奈良でも使う方便ですが「帰ろう」という意味。
それで慌てて元に戻したそうです。しかし、何故それがここに?ここでは泣かなかったという事でしょうか(笑)

naga2_7.jpg左図は長浜にある「妙法寺」というお寺です。元々小谷にあったのですが、浅井長政の敗北と共に、小谷の町は丸ごと長浜に移転されました。
そしてこのお寺は実はこの門しかありません。本堂と呼べるものはあるのですが、どうも火災にあって無くなってしまったようです。
今、募金を募って本堂建設をしようと試みているようでした。
で、ココなのですが、豊臣秀勝のお墓があります。


秀勝という名前は、実は3人おりまして、豊臣秀勝が二人、羽柴秀勝が1人。
有名なのは羽柴秀勝で、この子は織田信長の4番目の息子で御座いまして、秀吉が信長に頼み込んで養子に向かえたというエピソードが残っております。
そしてもう1人の豊臣秀勝とは、秀吉の姉の子供ですが、秀吉に世継ぎがいないと言う事で向かえた養子、
秀次の実の弟になります。彼もまた兄と共に秀吉の養子になっていたようですね。

naga2_8.jpgそして最後の1人、これは知らなかったのですが、秀吉には実は3人息子がおりまして、この長浜時代、側室・南殿との間に生まれた子供だったようです。初めての嫡男に秀吉の喜び様は凄かったようで、長浜城下の町民に砂金をふるまい、これを元に長浜曳山祭りが始まったといわれています。 しかしながらこの子も幼くしてこの世を去り、それから長く彼には男の子が授かりませんでした。晩年、淀姫との間に鶴松という男の子も生まれますが、この子も3歳でこの世を去っており、最後に授かった子が秀頼でした。(秀頼は秀吉の子供ではないという噂は当時からあったようですが・・・)
その最初の嫡男・幼名「石松丸」のお墓がここにありました。
このお墓は学術的に調査され、秀吉の書簡もあり、ほぼ間違いないだろうとされています。それにしても、秀吉のイメージはもの凄い「子煩悩」なのですが、それにもかかわらず、跡取りには恵まれなかったんですね。なんだか無情を感じます。彼の嫡男がいたら、この世はどう変わっていたのでしょうかね~。まぁ、これも歴史の流れなのでしょうか。なんとなく、家康の天下以外に考えが及ばないというのが、自分的に情けないのですが(苦笑)
みなさまはどう、思われますか?
【2007/09/18 15:32 】 | 他府県コラム | 有り難いご意見(3) | トラックバック()
前ページ | ホーム |

忍者ブログ [PR]