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【2024/05/10 21:59 】 |
宮本武蔵
musasi.jpg映画にもなって有名になりましたが、ここは宮本武蔵の『一乗寺跡下り松の決闘』の舞台となった(?)場所、「八大神社」

ものの本によると、武蔵自身が書いた著書には『下り松の決闘』の話は1行も出てこないのだそうです。

なんでも彼の弟子が後世に書き残した文章の中で書かれてあったらしく、そこからここから少し下がった場所にあった松の元で決闘したことが解ったのだそうです。

2k-yoshitune43.jpg
これがその松なのですが、この松は当時の松ではありません。
当時、ここに一乗寺というお寺があったそうで、この狸山と呼ばれる山越えをした人の目印となっていたほどの巨木だったそうです。
しかし、今では枯れて何代目かの松、なんでしょうね。
ここは、平敦盛とも関係のある場所です。



matu.jpg当時の松の株は、「八大神社」に祀られてありましたよ。
武蔵は決闘の当日、この神社に神頼みをしようとやって来たそうです。しかし、入るまでにハッと気付いたのですって。
「武士たる者、神頼みをするなどもってのほかだ。武士は他力に頼ってはならない。死こそが味方である」と思い直したのだそうです。
ですので、実際にここに参拝したというわけでは無いのですね。
まぁ、「改心の場」として名前が残ったと言うことでしょうね。

神に頼もうとした己の心の弱さを恥じた、と言う事でしょうか。
宮本武蔵という人物が如何なる人物なのか、実はよく知りません。小説や映画になっている彼の人物像というのは周知の事ですが、調べたことがないので実際はどのような人だったのかは、知らないのですよ。
寺院回りをしていますと、彼の絵画を何枚か目にします。
とても筆達者な良い絵を描く人であることは解っています。
有名な『五輪の書』も読んだことがないのですよ。

あ。
関ヶ原の乱に宇喜多氏の元にいて、参戦していたことは知っていました。
当時はまだ10代だったそうですが・・・・。

有名な『巌流島の決闘』も事実なのか否かは解りません。
佐々木小次郎という人物も謎が多いのでしょう?
どんな人物なのか、詳しく伝わっていないと聞きました。

hatidai.jpg
八大神社は詩仙堂の隣にあるのですよね。
詩仙堂にはよく行くのですが、私、ここに初めて訪れました(笑)
ここで武蔵をプッシュしているのは、実は町おこしの一環だったそうですよ(笑)


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【2007/10/24 09:36 】 | 歴史 | 有り難いご意見(2) | トラックバック()
伝統芸能

kagura1.jpg今年の春にNHK特集で「伊勢大神楽」を見てから、本物をどうしても見たいとずっと思っていました。
まさかこんな形で、しかもこんな早い時期に本物を見ることが出来たことは本当にラッキーでした(昨日の記事参照)
伊勢大神楽の歴史は江戸初期からだという話です。
伊勢大神楽の伝統を守り続けている、大阪城天守閣研究副主幹でもある、北川氏も同席なさっていて、その歴史と説明も同時に行われました。

kagura2.jpg江戸時代、伊勢国桑名郡太夫村(現、三重県桑名市太夫)と同国三重郡東阿倉川村(現、三重県四日市市阿倉川)の二ヶ所を本拠に伝承され、計20組が存在していました。



kagura3.jpg寛永年間(1661~1673)には一部江戸に下り定着をし、江戸でも12組が活動するところとなったのですが、江戸には伊勢大神楽の他に、尾張の熱田神社に伝わる神楽(尾張派・熱田派)もあり、伊勢大神楽は伊勢派と称されていました。
両派合わせて『江戸大神楽』と呼ばれていましたが、第二次世界大戦後、急速に減少し、現在ではその一部を寄席演芸として活躍するに留まってしまいました。
現在残る伊勢大神楽とは、伊勢を拠点として活躍していた人々が、20組が6組に減少しているのですが、今も続けられていて、国指定重要無形民族文化財として保護されています。

kagura4.jpg伊勢大神楽とは、獅子舞と放下芸と呼ばれる曲芸から成る神事芸能でして、これを演ずる人々もそう呼ばれています。
本来、伊勢神宮のお札を各家々(檀那場)に手渡しをし、そこで(各家の門前)神楽を舞う仕事をするものですが、現在は伊勢神宮とは直接関係が無くなったのですが、宗教法人・伊勢大神楽講社を組織し、1年中(元旦から12月20日まで)檀家回りを続けているそうで、その距離も凄く広く、近畿だけでなく、北陸・中国合わせ、2府11県を巡っているそうです。

kagura5.jpg伊勢大神楽の各組は、各家で竈祓いの獅子を舞う以外に、特定の神社境内などで「総舞」と言う芸能を披露します。

かつて日本に多く存在していた遊行宗教者の姿を知る上でも、大変貴重な事例となっていると北川氏は強く主張なされています。

雪深い街の中を歩んでいく彼らの姿をTVで見た時から、私は一目惚れしてしまいました(笑)
頂くご祝儀の袋を大事に伸ばして、その紙を使って獅子の毛に使うなどの作業も心引かれ、そこに、日本の心を見た気がして。

本日は「御堂筋パレード」でしたが、私はこっちのほうが大事(笑)
そのおかげ?
とてもゆったりとした気分で堪能出来ました(笑)

kagura6.jpg
近づく獅子に子供が「いや~ん」(笑)


この記事の続きはこちらにて



参考までに(笑)
見てみたいと思われる方

伊勢大神楽講社奉納舞予定

【2007/10/14 21:16 】 | 歴史 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
大谷吉継

seki2.jpg



大谷にゃんぶ!
ではなく(笑)、元ネタの大谷吉継刑部少輔と言う戦国武将のお話です。
結構、有名な方なのでご存じの方も多いかと思われますが、少々お付き合い下さい。

土曜日は天気も良かったので兼ねてから計画していた「関ヶ原上陸」をしてまいりました(笑)
歴史資料館で自転車をお借りして、天下分け目の決戦の地をサイクリングを兼ねて、歴史の勉強を(笑)
大谷吉継と言う福井の武将は、「白い頭巾の戦国武将」として異彩を放っておりました。
彼の武将としての才能は、豊臣秀吉に、「吉継に100万の兵を与えて、自由に指揮させてみたい」と言わせ、徳川家康に、慶長5年(1600年)7月、会津征伐が終わり次第12万石に加増することを約束したとも言われる程の武将でした。
しかし、実現しなかった理由というのは、彼の病気にあったのです。
諸説がありますが、おおむね、彼はハンセン病患者であったろうと言うのが定説になりつつあります。
その病状を隠す為、彼はいつも顔に頭巾を被っていたというお話しです。

seki3.jpg天下分け目の決戦と呼ばれた「関ヶ原の戦」では、徳川家康は吉継は東軍につくと信じていたそうなんですって。所が吉継は決戦当日西軍にいた。この時家康はかなり狼狽したと言い伝えられています。
(写真は「関ヶ原古戦場跡・決戦地碑です)
何故、家康とも親しかった吉継が西軍にいたのか。
それはひとえに「負け戦と分かっていても、友情の為に西軍についた人」であったからでした。


逸話が残っています。
この逸話には二つの説があるのですが、人は違っても同じ内容で伝わっています。

「ある時開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を、1口ずつ飲んで次の者へ回す、回し飲みを始めた。この時、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者たちは病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったが、三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み(一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ちたが、三成はその膿ごと茶を飲み干したとされる)、気軽に話しかけてきた。その事に感激した吉継は、関ヶ原において共に決起する決意をしたとされる。ただし、これは秀吉とのエピソードであったという説もあり、秀吉という説には吉継が感涙し生涯の忠誠を誓ったというお話しがくっついてきます」

いずれにせよ、西軍の将・石田三成とは深い友情があったようで、この戦を始める前に、三成に面と向かって意見したのは吉継でした。
それでも戦を始めるという三成に、彼は従ったのです。

seki4.jpg開戦当時、実は吉継はその病の症状により既に失明していたと言われています。
彼に従い、彼の目として戦った人に平塚為広と言う武将が傍におりました。
関ヶ原の戦で大きく戦局を変えたと言われる武将・小早川秀秋の裏切りにより西軍は破れた訳ですが、その小早川隊の猛攻を三度まで押し返したほどの猛将でしたが、更に脇坂安治らの裏切りにより自害をします。
(写真は平塚為広の碑・大谷吉継の陣下にありました)
彼は自ら取った敵武将の首と共に辞世の句を吉継に送ったと言われています。

「関ヶ原の戦」は旧暦9月15日、午前8時に開戦、その日の午後3時には終戦を向かえた戦です。
その僅かな時間で数千万とも言われる戦死者を出し、川は真っ赤に染まったと言われています。
小早川秀秋と毛利方の武将達の裏切り、島津の戦線離脱と言う戦況の為、西軍はあっという間に負けてしまい、大谷吉継も「もはやこれまで」と自害します。

seki5.jpgそして彼のお墓は彼の陣跡より更に山の中に今もひっそりと建っております。
しかもこの墓は、敵武将・藤堂高虎の軍に従軍していた、藤堂高則(高虎の甥)によって建てられたお墓です。
この中には彼の首が埋まっているとの事。
有名武将ですのに、首が敵の手に渡らなかった理由というのがあります。実は自害する前に小姓の湯浅五助に申しつけていた話がありました。「首を敵に渡してはならない」と。
五助は主君との約束通り、悲しむ時を惜しんで彼の首を抱えその場を逃げ去り、山中に埋めている時に、運悪く高則に見つかってしまったのでした。
そこで彼はその武将にこう言いました。
「私の首を差し出す代わりに、主君の首は助けて欲しい」と。
そして高則は「他言はしない」と約束し、五助の首を跳ねて持ち帰ったとの事でした。
その後高則は家康に追求されたのですが、絶対に吉継の首の在処は話さなかったとの事です。
その潔さに家康は彼に褒美を取らせたと言い伝わっています。

seki6.jpgその湯浅五助のお墓も、主君の墓の隣に並べてありました。
命と引き替えても主君の首を守った忠義者と、今も大事にされています。

国道から急な階段と急な坂道を登る事約20分。
「熊注意」の立て看板もなんのその(苦笑)
普段の運動不足に叱咤しながら娘と共に軽い登山(笑)
人っ子1人居ない山中を登り、二人のお墓までたどり着けました。

普段、こんな軽い登山でも嫌がる娘が頑張った理由は・・・・。
大谷吉継は真田幸村の義父に当たる方だから、だそうです(苦笑)
ヲタの為には頑張れる娘でした(苦笑)

でも、訪れる方はおおいのかも知れません。
人気の武将ですからね~。

seki7.jpg
大谷吉継のお墓

この日も入れたばかりのような花が供えられていました。
あれから407年の月日が経っているにもかかわらず、山中にあるこのお墓の周囲は実に綺麗に整えられておりました。

 

【2007/10/07 18:12 】 | 歴史 | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
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