× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 |
![]() |
古来から、少なくとも「万葉集」の時代から、日本人は人が死ぬと山へ帰ると言う信仰があるのだそうです。
お寺が山の上に多いのはそう言った信仰心も取り込んだ為でしょうか。 高野山がそうだというのは聞いたことがあるのですよね。 そこで高野山にも関係のある熊野。 世界遺産になって観光客が増大した地域ですが、知らなかったのですが熊野には「イザナミ」のお墓があるのですってね。 「日本書紀」での話なので創造されたものであろうとは思えますが、それでも今でも強く信仰されていて、地元では不思議な鎮霊祭が行われています。 花の窟神社と言うのだそうです。 70メートルもある巨石でして、その鎮霊祭の事を「御縄掛け神事」と言うのだそうです。 で、そのイザナミですが、(「イザナギ・イザナミ」と言う日本創造神の1人ですが)ご存じのように彼女はイザナギより先に黄泉の国へと旅立ち、彼女を追いかけてきたイザナギに自分の醜い姿を見られてしまったことを恥じ、イザナギを追い返してしまいます。そしてイザナギは黄泉の国へと繋がる道をふさぎ、二度と黄泉の国へは行けなくしたというお話しがありますよね?その後彼女は黄泉国の主宰神となるのです。 その彼女の居る国が「熊野」だと言う事で、二人の子供・天照は伊勢で太陽神として君臨していますが、伊勢が現世で熊野が黄泉と言う信仰が根付いたのだそうです。 古来より「熊野」は死んだ人間の魂が集まる場所として存在していて、和歌山県のとある村では「骨(こつ)のぼり」という風習があるのだそうです。 人が死ぬとその遺体の一部を山に葬るという風習でして、山に向かう最初のさわはあの世とこの世の境界線だと考えられていました。 そのさわにある最初の木に草鞋・おむすび・杖をくくりつけます。これが死者が黄泉の国へと旅立つ為の旅支度なのだそうです。 この間行った播州・清水寺。 ここも山の上にあるのですが、この山の麓に「木津」と書いて「こつ」と読ませる地域がありました。 関連性は全く分からないのですが、珍しい読み方だなと思い覚えていただけですが、なんだか似たような風習でもあったのかと思った次第です。 「熊野」と言う呼び名は「隠国(こもりく)」から来ているという話があります。 死者が隠れる場所を「隠野(こもりの)」と言うのだそうです。 この「こもりの」が「くまの」と発音されたという説があります。 しかし、平安時代にはいると「末法思想」が蔓延します。 平安という時代が「末法」であるという考えですね。この世の終わりだと考えたわけです。この考えは釈迦の入滅後、二千年を経過すると、一万年間は釈迦の教えだけが残り、悟りを得る者はいなくなると言うものです。1052年(永承7年)に末法に 入るといわれ仏教界のみならず一般思想界にも深刻な影響を与えたのだそうです。 小栗判官伝説というのがあります。 (詳しくはこちらで→●) 熊野は死後、再生の神として崇められたのでした。 平安時代に大流行した「熊野詣」はこうした背景から盛んに行われたそうです。 熊野は死者の道であったのですが、死後再生の道として崇拝された場所となったそうです。 PR |
![]() |
しんどくなったら横になるを繰り返している私は、横になっている間ドラマを見直しています(笑)
「風林火山」を最初から見直していました。 いや~、やっぱりこのドラマの勘助は「可愛い」わ(笑)なんて思いながら浸っていたんですけど、改めて見直して序盤の複線が明確になりました(苦笑) なにしろ「1年前の記憶? なにそれ、美味しいの?」状態ですので(汗) ところで第1回目の映像って覚えてらっしゃる方、いらっしゃいます?なんとあのGackt謙信は謙信をしていたんですね~。忘れていました(苦笑) つまり、上杉謙信のトレードマークでもある白い頭巾をかぶっていたんですよ~! どうして最後まであの姿を決めてくれなかったのだとも思いますけどね(笑) マニアックなNHK子供番組のキャラが好きな私はNHKの携帯サイトに登録しているのですが、ふと、「そう言えばこの番組も見れたんだ」と気づき(気付くの遅い!)番組を開いて見て無料でDL出来る品々をゲット(今時分ですが・・・) いや、終わったから無料だったりもするのかな?? そこでの内野さんのコメント。 「最後のシーン、実は眉毛を片方そり落としてしまってありません」 え?そうだったの?? 勘助の目の傷の部分だけ、少しだけ毎日添っているらしいのですが、その日は寝不足で自分がそり落としているのも気付かずスタジオ入りしたとか。 スタッフの人がみんな絶句していて「何がおかしいのだ?」と本人はまるで分かっていなかったそうですよ。 いやはや、まぁ、細いといえど無ければ無いで迫力のありそうな顔になっていたことでしょう(笑) なにせ丸坊主でしたし(笑) これでサングラスだとエグザイル?(苦笑) ここからは史実なお話し。 山本家は結局血筋は途絶えたのでしょうか? 勘助が信玄に仕えたのは50になってからです。そして川中島で討ち死にするのが68だと言われています。 仕官するまでの記録は曖昧で、妻帯していたという記録はなく、仕官後、彼がかなり晩年になってから妻を娶ったというのが残っているそうです。 しかし子供が居たのでしょうか・・・。 一説によると太平洋戦争で活躍した山本五十六の先祖は山本勘助であるとか言う話を聞いたのですが、え? 誰の子孫だって?って聞き返しました。 大河はドラマなの出来る限り史実には近づけるだろうけどあくまでもドラマですから、起承転結が大事。 ですから史実ではありえない部分も多く出てくるはずなのですよね。 山本勘助の子孫が居たという話は知らなかったのですが、江戸時代に大ブームとなった「甲陽軍鑑」の所為で武田信玄とその武将達のネームバリューは相当だったそうです。 で、それにあやかってかどうかは知りませんが、色々出てくるのだそうです(笑) 「我こそは山本勘助の子孫なりぃ~!」と・・・・。 お馬鹿な幕府など山本という姓を持つ越後の武士が自己申告で「勘助の子孫」と告げただけで信じて幕臣に取り立てたと言う話も残っていますし・・・・。 江戸時代に作られた歴史書に「甲斐国史」というのがあるのですが(こちらで見れます→●)コレによると勘助は1男1女をもうけたと記されているそうですので、(年寄りだが頑張った(笑))男の子は長篠で討ち死にしていますが娘さんが残っていて愛知県で後日「山本」の姓を継いだと書かれてあります。そしてその子供が「山本勘助」と言う名前で宮津藩主に仕えていると言う話でした。 しかし彼らだけでなく、あちこちに点在しているのは一体・・・とね(笑) |
![]() |
TVで「今年も後10日」なんて言われるとめちゃくちゃ焦ります。
やはり今年もギリギリまで掃除していそうです(汗) キッチンの掃除を終えたら、膝に無理な負担がかかっていたようで、昼食の後少し休んで、散歩に出かけました。 今日は暖かかったからね~。 膝の調子も平面を歩くとマシになります。 折角だからと、ちょっと1614年に起きた「大阪冬の陣」検証をしてみました(笑) 大阪冬の陣についての詳しい内容はウィキペディアで→● あちこちのサイトで「真田丸」は何処にあったのかと書かれていますが、私なりに考えてみました。 真ん中より少し下にあるのが「真田丸」 あの真田幸村が陣を張っていた場所ですね。 中央の東西に描かれているのは「空堀」 堀があるだけで水が流れていない所です。 天守閣の右にあるのが「猫間川」です。 これは途中で無くなっています。空堀の先端とくっついていて、これが最初から川だったか否かは分かりません。もしかして人口的に作ったものかも知れません。 此川は幕末になると1本の川となり、更にこの地図で言うと南に下っていきます。 一番左の川は「平野川」と書かれています。 この平野川と合流させたのかも知れません。 多分、この地図の所為で「真田丸」は「真田山」にあったのだから、三光神社ではなく、今の明星学園の場所にあったのだろうと思われているようですね。 現在の地図はこちら→● 「心眼寺」と言うお寺は江戸時代に真田一族の菩提を弔う為に建てられたお寺です。 この寺の位置からすればお解りの様にこの幕末に描かれた地図では「明星学園」が「真田山」と表記されています。 しかし、ここだけだと小さいんです。 上記の地図から検証すればもう少し大きな出城に思えます。 「心眼寺」は真田丸跡地に建てられたと聞きます。 ですので、ここは「真田丸内」だと思われます。 余談ですが、ここのお寺の門には寺紋として幸村の「六文銭」が彫られてあります。 それともう一つ、標高がこの辺りで一番高いと思われる場所は明星学園の場所で言えば、現在の地図上では南西。餌差町と言われる場所です。円珠庵のある場所です。 しかし、この円珠庵、別名「鎌八幡」と呼ばれている場所でして、幸村が冬の陣必勝祈願を立てたお寺としても有名です。 (因みに、国文学者・契沖のお墓があることでも有名です) で、このお寺を巻き込んで出城は造らないだろうとか思ったんです。 そんなことで実はこの間、某大型書店に参りまして、立ち見を(苦笑) 上記の古地図は雑誌の付録として私が所持しているものですが、もっと古い時代の大阪の地図を見たくて行きました。 もっとも古いもので1700年初頭のものしか無く、地図も簡素なものでしたが、そこに描かれていたのは「真田山」は単独の小さな山ではなく、三光神社からこの幕末に描かれた真田山まで丘と言える丘陵地域になっていたことが分かりました。 本殿は更に上にあります。 同じ高さの位置に小学校があり、その側面を歩くと、 しかし、この写真を写している場所も実は少し高い位置にありますので、下から来ると丘程度の高さはあると思いますね。 学校自体が高い位置に建っていることが分かります。 この前の道路は「真田山の坂」と呼ばれている途中の場所でして、長い坂道がダラダラと続いてる場所です。 ですので、駅の高さからすれば比較的高い位置であることがここでも分かります。 真田丸は空堀で囲まれた出城です。 これは堀の高さだったのかなぁと・・・。 もっと深いとは思いますけどね。 と、言うことで、三光神社込みで、明星学園の真ん中辺り、そしてこの小学校を入れた大きさが、「真田丸」だったのではないかと思えるんですよね~。 |
![]() |
鷹狩りの歴史は古く、お話しによると4000年前に中央アジアの遊牧民によって行われたのが始まりなのだそうです。 日本には1700年前に伝わり、応仁天皇が鷹狩りをしたという記述が残されているそうです。 現在では「NPO法人・日本放鷹協会」としてその技術が残されています。 ちなみにこの方が持っているのは「はやぶさ」(笑) 頭に頭巾を被っているのは外すと直ぐに飛び立ち狩りを始めちゃうからなんですって(笑) 「はやぶさ」と「大鷹」の狩りの仕方が違うんですって。この時目の当たりにして、観覧席の方々がため息混じりの歓声をあげてらっしゃっていました(笑) この写真は「大鷹」 精悍な顔がすてきです。 これら使われている鷹は実は国内の鷹ではありません。国内の鷹は保護鳥ですので捕獲が許されていないのだそうです。 で、これは海外から輸入した鷹。 飛ばしているシーンを頑張って撮るのですが、微妙にピンぼけ(苦笑) やはり私の腕では撮しきれなかったようです(涙) なかなか精悍な顔つきでしょ? これらを扱っている方も受験で受かった鷹匠のお一人。 鷹匠になるのは凄く大変なのだそうで、鷹匠を名乗れる人だけが、上図の装束を身につけることを許されているのだそうです。 その方の、猛禽類取扱店「河童」のHPはここ(笑) ご興味のある方はどうぞ(笑) そうそう、来年のお正月。 1月5日にもう一度ここでこれが見られます。 お暇なら、1月5日、二条城までお越し下さい。 |
![]() |
以前、島左近の墓を偶然に見つけたんだけど、怖くて探せなかったと言う記事を、ここで書きました(笑)
で、今回近くまで行ったので、丁度墓守らしき人をお見かけしたのでお聞きしますと? 「ああ、あそこの一番大きな墓や」 一番大きな墓・・・・。 「直ぐ解ると思うわ」 聞かれることが多いのだろうね、即座にお答えを頂きました。 で、その一番大きな墓とは・・・・。
|
![]() |
忍者ブログ [PR] |