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「霞が関は最低だ、国土庁はボンクラ」と怒り爆発な、何かと話題の大阪府知事。
国が勝手に道路整備やダムなどを計画して、「造るからお金は出してね」と丸投げな国土庁に「国も協力しやがれ!」とかみついたという話は有名ですね。 地方の整備をするのだからお金は地方に出してもらえばいいという考えは、バブルまでの事。 こんだけの不況、大阪の莫大な借金。 この状況下で「国の言葉は絶対」というのは確かに通らない気がしますね~。 なにかその整備で大阪にメリットがあるのならまだしも、徴収したお金は(たとえば通行料など)国が持って帰るのは・・・、どうよと。 明治維新のお話。 とにかく近代化しなくてはならない、当時の明治新政府は海外に視察に行ったんですよ。 そこで長く鎖国していた日本人はびっくり。 機械産業の発達したヨーロッパを見て、「日本もこれからはこういかなくては」と一大決心をしたのが大久保利通。 海外から機械や鉄骨などを輸入したいのだけれども、当時日本円と言うのは全く通用しなかったわけです。 そこで思いついたのが外貨の獲得。 さて、日本から輸出するものとしてろくなものがないと考えていた利通は、京都に入ってくる良質の絹に目を付けたんですよ。 絹なら高く売れるんじゃない? そう、考えたんです。 さて、その絹はどこで作られているのかと調べると、当時の但馬、今で言うと豊岡市、兵庫県の日本海側ですね。 この絹を安全に迅速に海外へ輸出しようとしたとき、当時すでに開港していた神戸にめをつけたんです。 しかしながら、当時の神戸と言えば、本当に今現在の神戸市ぐらいの大きさしかなく、神戸港と言ってもまだ漁村のままで、小さな漁船が横行できる程度の港だったのです。 ここを大きな船が横付けできる立派な港に開発しなくてはならない、それには膨大な資金が必要。神戸を開発するには神戸の税金を使えばいいのだけど、国が小さすぎてとても無理。 どうすればいいのかと考えた時、ふと、隣の播磨、当時の飾磨を見つけました。 飾磨とは姫路城を中心に独立独歩の精神で市民が活気づいている町でした。 稲作も豊富で税金も多く納めている国でした。 そうだよ、ここを使えばいいんじゃない? そこでおもいついたのが合併。 絹の産地である但馬も合併すれば運搬にもお金はかからないし、飾磨を取り込めば結構なお金があつまるじゃない~?俺って天才?と言ったかどうかはわかりませんが、とにかく大久保利通は強行合併をして今の兵庫県を作ったのです。 しかしその税金の殆どを神戸港の整備に導入。 これに怒ったのが飾磨の人々。 自分たちの為になる事に使われるのならまだしも、全く関係ない神戸ばかりに税金を投入するとは何事かと。 それもそのはずで、兵庫県の半分以上の税金は飾磨の納税金だったわけです。 しかしながら、近代化は第一項目であった明治政府に聞く耳など無く、飾磨の訴えもまるで受け付けなかったようです。 それでも合併が訂正されたところもあるんですよ? 大阪の合併は切り離され今の奈良が誕生し、鹿児島も切り離され宮崎ができたわけです。 そんな中で、兵庫県だけは許されなかった。 飾磨の民衆が汗水たらして納税したお金は全て神戸につぎ込まれてしまったんです。 兵庫県は周囲の7つの国を合併した県です。 だから風土も民衆気質も違った大きな県になったんですよ。 それもこれも神戸のため、外貨を稼ぐため、だったわけですね。 まぁ、結果的にいえば外貨は得たわけですが、大久保利通は暗殺されてしまいました。 で、最初に話を戻しますとね、この時からなんでしょうね、自治体に負担させるという考えが始まったのは・・・。 一度決まったものは「決まりですから」で時代を見ない発言を繰り返すお役所の人の気質は変わっていないのか、面倒なので考えることをしないのか、変わっていないって事ですよね・・・。 PR |
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郡山城のある大和郡山、そこの昔の城主だった秀吉の弟、秀長さんに最近娘がはまっている所為(苦笑) 郡山のそばにいる親戚に以前「ここを城主は誰?」と質問したところ、 どっちも関係はあるけど間違っています。 郡山城は奈良の覇権を巡って、あの東大寺を焼いたと言う事で悪名名高くなった松永秀久と言う武将と闘っていた筒井順慶と言う戦国武将が、織田信長の力により奈良を獲得し、明智光秀の指揮のもと城郭を建てたのが始まりです。 筒井順慶と言えば嶋左近(笑)→クリック その後、織田信長がその光秀に暗殺され(本能寺の変)豊臣秀吉が天下を獲りますが、その頃にここ郡山城の城主を務めたのが豊臣秀長でした。 そして徳川の世になった頃、ここは水野、徳川、本多と城主を変えていきましたが、1724年(享保9年)に、あの犬公方と呼ばれた五代将軍・綱吉の側用人をしていた柳沢吉保の子、吉里が入城しました。
穏やかな暮らしをしていた秀長でしたが、秀吉の強引ともいえる勧誘で武士になりますが、武士と言えばその当時戦は避けて通れないものでした。 彼の名前が信長にも浸透していったのは、美濃(岐阜)の斉藤氏の居城・稲葉山城攻めの時でした。 蜂須賀小六と言えば秀吉の良き部下と言うイメージですが、実は彼が秀吉軍に入ったきっかけは秀長だったそうです。 その川並衆を束ねていたのが蜂須賀小六。 そんな秀長ですが、中国攻めの時、毛利との戦いで銀山に目をつけ但馬を自ら大将となって攻め落とします。その時決して力を誇らず、地元の国侍の領地をそのまま統治させるなどの寛容な対処をしたため、国侍たちはこぞって秀長に帰順したと言われています。その数は3000人余りだと言い伝えられています。この時秀長は但馬10万5000石を拝領することになったのでした。 書き出せばいろいろあるのですが、とにかく、秀長はそれなりに大将としての器もあり、万民を理解し、彼の誠実さに帰順する武士(高虎もその一人)も多かった人でした。あの千利休も彼がいたからこそ秀吉の傍に仕えていられたという話も残っています。 そんな秀長の最期が、この大和郡山だったわけです。
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最初に、これはあくまでも私説でしてこれに対してなんの歴史的根拠がない事を明記致します。
神道や仏教が無かった頃、八百万の神々が日本には鎮座し、その多くは自然神で祀り方等は統一性がありませんでした。 しかし大和朝廷が設立した頃、二礼二拍一礼の形が整ったように思われます。 と言う事は仏教と神道というのはほぼ同時期だったんでしょか。 しかも、その頃から神は自然ではなく「人」が神になったと思われるんです。 人が神になり、その人を供養する仏教とは切っても切れなくなり、そこで神仏が一緒に祀られた様に思えますね。 この伊勢神宮、アマテラス神を祭神にされていますが、この間TVを見ていて意外な繋がりがあった事を私は初めて知りました。 「世界ふしぎ発見」という番組で仮設をたてていたのですが、 詳しくはこちらで→クリック 日本最古の家系図、海部宮司家と言うのがあります。これは丹後にある篭神社、通称・元伊勢神社と呼ばれる宮司の家系図ですが、ここに卑弥呼と豊受が記載されていると言われています。 元伊勢についてはこちら→クリック 卑弥呼=日の巫女と言われ、それが太陽神アマテラスであると言うのです。 卑弥呼が亡くなったのは日食があった時。 つまりアマテラスが天の岩戸に隠れたにあたり、その原因が彼女の弟であるスサノウが暴れた事。これは卑弥呼の後に男性の天皇が即位したが世が乱れたと言う記述になり、その後女性の王が即位し世が安定したとされた事は、この豊受大御神の事ではないかと言う説があります。 そして丹後と出雲、ここは渡来人の港であり、卑弥呼は大陸の人間だと考えれば符合する事も多いように思うのです。 以前、こんな事を私は書いていました。→クリック 大和朝廷はその設立を確かなものにする為に作ったのが「日本書紀」という記述だとされています。 天孫降臨説は卑弥呼を神に仕立てた事から始まるのでしょうか。 しかしながらここで知っておかなければならない事が一つ。 ご存じでしょうか。 伊勢神宮で八礼八拍。 出雲大社では四礼四拍。 そしてもう一つ、大分にある宇佐神宮も四礼四拍なのです。 「逆説の日本史」という本で有名な井沢元彦さんが「神霊の国 日本」でこの「四」という数字に疑問を投げかけてらっしゃいます。 この三社以外にこの様な拝礼の仕方をしません。 「四」=「死」とする言霊文化を持つ日本人が、神社にこの様な参拝の仕方をするものだろうかと言うのです。 ここで思い出して頂きたいのは日本の神社の祭神となっている人物の多くは祟り神であると言う事。 例えば有名な人では菅原道真(天満宮)、そして平安京遷都の大きな理由となった早良親王(御霊神社)等。 ではオオクニヌシは祟り神なのでしょうか。 本の中で井沢さんが、元々オオクニヌシはこの国の王であったのわけですが、一方的に卑弥呼から譲られ(憤怒しそうな事ですよね。かき回すだけかき乱して後はお前にやるよなんて)しかもその条件に「長に隠れ」(とこしべにかくれ)てと日本書紀にあります。つまり「死んだら譲るから」と言われたわけです。 最低~。 そりゃ、怒りますよね。祟り神になっても致し方がない。 ですのでその祟りを押さえ、福に転じて貰おうと出雲に祀ったというのです。 「死」を打つ事でオオクニヌシの生還を押さえていると言うのです。 出雲大社は奈良東大寺より高い建物だったというのは発掘で明らかになっています。本当にむちゃくちゃ恐れていたのですね。 そして宇佐神社ですが、御祭神は第一に八幡大神(応神天皇)・第二に比売大神・第三に神功皇后の三柱です。 全国の八幡宮の総社となっている神社ですが、ここの社に問題があるというのです。中央に比売大神の社があり向かって右に神功皇后の社、そして向かって左に八幡大神の社が建っているのだそうです。 常識的に考えれば中央に第一の祭神、八幡大神を鎮座させるべきですが、この社の配置に学者内では物議を醸し出しているのだそうです。 この配置だと第一に比売大神、第二に神功皇后、第三に八幡大神となってしまいます。 では中央にある比売大神(ひめおおかみ)とは一体誰なのか。 井沢さんはこれは卑弥呼だと述べていらっしゃいます。 卑弥呼は日食のあった時に暗殺されていると松本清張さんが述べてらっしゃいますが、私もなんとなくですがそうだろうと思っています。 大和朝廷の始祖である卑弥呼。 彼女の作り上げた暗殺と殺戮の王国。 その大和朝廷第一の犠牲者となって当然だと思われます。 暗殺された卑弥呼の怨霊を押さえる為に応神天皇と神功皇后の力を借りていると書かれてありました。 話はかなり逸れて行きましたが(汗)神道はこの大和朝廷における怨霊封じから来ていると言えないでしょうか。 誰もが同じように怨霊封じのまじないを行えるように形式を整えた。 こう考える事が出来ないでしょうか。 |
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山上憶良(やまのうえのおくら)
一度は聞かれた名前なのではないかと思えます。 万葉歌人でその名前が後世に残っておりますが、彼は大友家持の家庭教師で、県知事もしていて、同時に裁判官でもあった人でした。 遠く都を離れて福岡県にいた人ですが、とても感受性の豊かな人だったようで、彼の残した歌は、貧困に喘ぐ人々に同情しなんとかしようとしている姿とか、家族を思って残した歌などが多く残っています。 特に子煩悩だったようで、子供に対する歌も少なくはありません。 世の人の 貴び願ふ 七種(ななくさ)の 宝も我は 何(なに)為(せ)むに わが中の 生まれ出(い)でたる 白玉の わが子 古日(ふるひ)は 明星(あかぼし)の 明くる朝(あした)は 敷妙(しきたへ)の 床の辺(へ)去らず 立てれども 居(を)れども 共に戯(たはぶ)れ 夕星(ゆふつづ)の 夕(ゆうべ)になれば いざ寝よと 手を携(たづさ)はり父母(ちちはは)も 上は勿(な)下(さか)り 三枝(ささくさ)の 中に寝むと 愛(うつく)しく 其(し)が語らへば 何時(いつ)しかも 人と成り出でて 悪(あ)しけくも 善(よ)けくも見むと 大船(おほぶね)の 思ひ憑(たの)むに 思はぬに 横風(よこしまかぜ)の にふふかに 覆(おほ)ひ来(きた)れば 為(せ)む術(すべ)の 方便(たどき)を知らに 白妙(しろたへ)の 襷(たすき)を掛け まそ鏡 手に取り持ちて 天(あま)つ神 仰ぎ乞ひ祈(の)み 地(くに)つ神 伏して額(ぬか)つき かからずも かかりも 神のまにまにと 立ちあざり われ乞ひ祈(の)めど 須臾(しましく)も 快(よ)けくは無しに 漸漸(やくやく)に 容貌(かたち)くづほり 朝な朝な 言ふこと止み たまきはる 命絶えぬれ 立ち踊り 足 摩(す)り叫び 伏し仰ぎ 胸うち嘆き 手に持てる 吾(あ)が児(こ)飛ばしつ 世間(よのなか)の道 この歌を聴いた時、子供に先立たれた親の悲しみがヒシヒシと伝わってきて、思わず泣いてしまいました。 意味は、 「世間の人が貴び欲しがる七種の宝であろうと、私にとって何になろう。私たち夫婦の間に生まれてきた白玉のようなわが子古日は、明けの明星が輝く朝になっても、白い布を敷いた寝床を離れず、立っていても座っていても私たちにまとわりつき、宵の明星が出る夕方になると、さあ寝ようと手を取って、父さんも母さんもぼくの側から離れないで、三枝のようにぼくが真ん中に寝るよと、かわいらしくあの子が繰り返し言うので、早く一人前になって悪くも良くもその将来を見たいと、大船に乗ったつもりで頼りにしていたのに、思いもかけずすさまじい風が突然に襲ってきて、どうする方法も手段も分からず、白い布のたすきをかけ、まそ鏡を手に持ちかざして、天の神を仰いでは願い祈り、地の神に伏して額をつき、病気を治してくださるとしても治してくださらないとしても、すべては神の思し召し通りにと、立ち上がって狂ったように私は願い祈ったが、しばらくも快方に向かうことなく、だんだん元気がなくなり、日ごとに物も言わなくなり、命が絶えてしまった。飛び上がり地団駄を踏んで叫び嘆き、地に伏し天を仰いで、胸をたたいて嘆いたが、掌中にいつくしんだわが子を、横風に飛ばされて失ってしまった。これが世の中の道なのか。」 先立たれた事を幾ら悔やんでも、もう二度と腕の中には戻ってくれないぬくもり。 寂しくてどうか過去に戻ってもう一度と、何度繰り返す事か。 親が出来る事は子供の行く末を神に祈る事のみになってしまうわけです。 せめて迷わず、ちゃんと浄土に行けるよう、願う事しか出来なくなります。 若ければ道行き知らじ幣(まひ)はせむ黄泉(したへ)の使(つかひ)負ひて通らせ 「まだ幼いので、黄泉の国への道が分からないだろう。贈り物をするから黄泉の国の使よ、どうかわが子を背負って行ってやってください。」 布施(ふせ)置きてわれは乞ひ祈(の)むあざむかず直(ただ)に率(ゐ)去(ゆ)きて天路(あまぢ)知らしめ 「お布施を奉って、私はお願いしお祈りします。別の道に誘うことなく、まっすぐ連れて行って、天までの道を教えてやってください。」 祈ってもまだ祈り足りないから、出来るだけのお布施をするから、なんとしても浄土に連れて行ってやって欲しいと願う気持ちは壮絶です。 こんな事になるのならもっともっと甘やかせば良かったと、そんな後悔も偲ばれます。 死なれてしまっては、親などなんにも出来ないのだと、そんな声すら聞こえるようでした。 |
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