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【2020/03/31 22:44 】 |
堺の町を自転車で走りました。
あの寒さはなんだったのかと思う程、本日は暖かい、と言うか、冬着で行くと失敗したと思えるほどの陽気でした。
堺の町をふらりとレンタサイクルで走ってみました。
あまり行かない地域だったので面白かったですね~。

sakai1.jpgどうせ行くなら「夏の陣」関係の場所を回ろうと(さっすが戦国ヲタ)
やはり最初はここ、「南宗寺」
ここは1526年(*1)元々後に京都大徳寺の住職になった古嶽宗亘が小さな院を「南宗庵」と改名したのが始まりでして、就任終了後ここにまた戻られたそうです。
正式名は「臨済宗大徳寺派 龍興山 南宗寺」と言うのだそうです。一口に言えば禅寺ですね。
戦国関係で箇条書きにすると、
○三好家(*2)の代々のお墓がある。
○千利休の供養塔がある。
○家康のお墓がある。
と言うお寺です。

「家康のお墓?」と思われるでしょ?まぁ、結構最近では有名な話なのでご存知の方も多いでしょうが、「大阪夏の陣」で後藤又兵衛により槍で籠ごと突かれているんですよね~。これは事実のようです。
その時に怪我だけだったと言うのが歴史上のお話ですが、「家康がその時に死んでいる」と言う話もありまして、完全否定の出来ないものがあったりします。

sakai2.jpgこちらがそのお墓。
「まさか~」と思われるでしょうが、ここに2代将軍と3代将軍が来ているんですよ。
わざわざ江戸から堺までですよ?
よほどでないと来ないと思いますよね~。


sakai4.jpg中は非公開ですがこの「坐雲亭」には2代・3代将軍直筆の板額が存在しております。
着た証ですね。
これ、御茶室ですが二階建てなんですよ。
下は茶室ですが二階は展望台のようになっており、堺の街を見渡せたんですって。ちなみにこの建物はこのお寺、最古の建物だそうです。

sakai3.jpgそしてこれが水戸藩士が建てた家康のお墓ですが、東照宮が建っていたそうです。この写真の奥が本来の家康のお墓がある場所です。しかし東照宮は空襲で焼けまして、現在あるこの大きなお墓は松下幸之助等によって再建されました。おおっぴらに家康の墓とは言えないのか「東照宮跡碑」と説明されていましたが、石にはちゃんと「徳川家康墓」と刻まれていました。

講談師・旭堂南陵さんは「絶対にこの時、家康は死んでいる」派、なんですって(笑)

sakai8.jpg余談ですがここの壁は一面瓦が埋め込まれております。
これは「大阪夏の陣」で堺の町は焼けたのですが、その時残った瓦を使った壁なんだそうです。








sakai5.jpg次に向かったのはここ、「千利休屋敷跡」
ご覧の通り、井戸しか残っていません。実際にはあったらしいんですよ。利休は塩乾業の商家に生まれ、その屋敷がここにあったそうで、江戸期に入るとここの加賀屋太郎兵衛が利休を偲び茶室を建立。その後上記の南宗寺に移築されましたが空襲によって焼失、現在は昭和30年に再建された茶室が存在します。
この井戸は大徳寺の山門が修理された折、その廃材を貰って建てられたもので江戸期のものです。まぁ、大徳寺の廃材ですので木そのものは秀吉の時代のものなんでしょうね。もっと昔かしら・・・。

sakai7.jpgそしてこちら、妙國寺です。
正しくは「日蓮宗 廣普山 妙國寺」と言い、上記の三好4兄弟の一人、三好之康が建てたお寺です。
元、皇室勅願寺だったそうで、お堂の扉には菊と桐の御紋がついております。
中は撮影禁止なので写真はありませんが、実はここに樹齢1100年以上と言うソテツの木があります。
そりゃもう大木ですが、上にあまり大きくならずソテツって横に張るんですね~。
しかも1メーター育つのに100年必要なんだそうで、ビックリです(汗)今回初めて知ったんですが、ソテツって中が空洞なんですよ。変な話ですが重そうに見えるけど、持ち上げると軽いのかしらって話してました(笑)
で、そのソテツ、何が戦国かと申しますとね、織田信長が安土城を作った折、このソテツを気に入り、寺院の反対を無視して安土に持って帰り移植したんですって。
処が、夜な夜な泣き叫んだんだそうです。「堺に帰せ~!」って。あんまり気色悪いので信長が一刀両断で枝を切り落としたんですが、切り落とした時中から血が吹き出たと言う話が残っております。実際には吸い取った水分が噴出した時、化学反応が起こり、赤く染まったのではないかと言う話なんですが・・・。
気味が悪いと信長は、結局このソテツをここへ戻したそうなんですが、戻された無残なソテツを憐れみ、日珖上人が毎晩法華経を唱え、ソテツの蘇生を願ったそうです。そしてある晩、夢枕に老人の顔を持つ大蛇のようなものが現れ、上人に感謝しこの街を守護すると約束したそうです。
その怪しげなものこそ「龍神」だったそうで、ソテツの足元には何故か可愛らしい(笑)龍神像があり、このソテツの前には「徳正堂」が建てられ龍神を祀っているそうです。

sakai6.jpg最後がここ。
まぁ、それまでにゆっくりと回っていたので時間が採られてしまいレンタサイクルでしたので4時半には戻らなければダメだというので回る場所は限られてました(苦笑)
えっとこれは「大野道犬冶胤」のお墓です。大野三兄弟の三男坊で秀吉の側近だった人ですね。次兄の治長は「大阪の陣」の時淀君と秀頼の側近として傍におり、噂では秀頼の実の父親ではなかったのかと言われていた人です。
この道犬は水軍として活躍しておりましたが、「大阪夏の陣」で大敗をし、京都まで逃れたのですが残党狩りにあい、ここ堺の町で火あぶりの刑にされたんです。当時は豊臣方は逆賊とされていたのですが後に「豊臣に忠義を貫いた武士」とされ堺の商人の手によって処刑のあった場所で供養塔が建てられました。その供養塔がここ「月蔵寺」に移転されたのです。
sakai9.jpg「日蓮宗 青陽山 月蔵寺」は普段は非公開だったと思われますが、今回は特別公開で開いておりました。
1495年、京都・頂妙寺の末寺として創建されたお寺です。
この山門は1850年に再再建されたもので、薬医門の形を取っており、山門の上には「司馬温公の瓶割」(*3)を題材にされた珍しい彫刻があります。日光東照宮にも同じ題材の彫刻がありますね。

帰り道にこんなものを見つけました。
sakai10.jpgキリシタン大名・小西行長の屋敷跡です。
ご覧の通り、道路側が家だったようですね。
まぁ、このように碁盤の目に町が変わったのは江戸期ですから、戦国時代にはここは道路ではなく屋敷があったと言う事ですね。
しかしまさか道路側に屋敷があるとは思わなかったので見落としてました(笑)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

*1 戦国時代です。年表上「戦国時代」とはだいたい応仁の乱(1467年)より室町幕府が倒される(1573年)を言うのだそうです。
その後は俗に「安土桃山時代」と呼ばれる事もあるそうですね。ですので、この時代の征夷大将軍は足利12代将軍・足利義晴の時代だそうです。

*2 三好氏 戦国大名で堺の町を一大貿易港として制定した人で、戦国時代初の天下人と呼ばれた家系でした。元々は四国の人なんですけどね。
詳しくはウィキペディアで・・・。→クリック

*3 司馬温公が
子供の頃、大きな水瓶に落ちた友達を助けるために、石で瓶を割りました。大切な瓶を割ったので叱られることを覚悟していましたが、父親は温公をほめて、改めて命の大切さを教えたと言います。

続きに今回寄った昼食場所と和喫茶のお話を・・・。
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【2009/11/07 10:02 】 | 歴史 | 有り難いご意見(2) | トラックバック(0)
道教

天王寺美術館で開催されている「道教の美術」を見に行ってました。
日本の仏教は如何に日本独自なものに変化したのかよくわかった気がします。

道教の思想や理念は神道に繋がってますよね。
道教もまた創始者が無く、自然におこった宗教で、多神教でもあります。

道教と仏教が同時期に日本に伝わった感があるので、その二つが混ざりあい、日本の仏教と神道に繋がったとしたら、日本において神仏分離は不可能だったのではないかとさえ思います。

しかし道教は正式には伝来しておりません。
鑑真和上を日本に迎えるにあたって、道士もつけろと言う言葉を拒否し、結果、密出国と言う形で鑑真は日本に訪れています。

しかしながら日本における様々な年中行事は陰陽道から起源を発しているものも多く、この陰陽道こそ道教に繋がっているものだといえます。

死生観もこの道教に大きく影響を受けているようにも思えますね。
地獄と言うのはインドにもあった教えですが、そこに道教が合わさり、閻魔大王の裁判・死者の救済神でもある地蔵信仰、餓鬼を神にしていた民間信仰が合わさり、彼岸でもある今この時期に行われる「施餓鬼」等の行事をや信仰を生み出しました。

それまでは死者は即天界に行くと言う浄土真宗の教えそのものの考え方をしていたようです。
だからこそ山に魂が登るのだと信じられていたんですね。

道教の基本信仰は「福・禄・寿」と言う現世利益を得ると言う宗教。
福=幸運
禄=金銭
寿=長寿
七福神信仰などモロ、道教ですね。
とりわけ長寿に力を注いでおり、不老不死を追求している教えなんだそうです。

その代表的なお話が秦の始皇帝ですよね。
彼は不老不死の薬を求めて世界中に使者を送っていました。
結局、そんなものは見つからなかったようですが。

道士の来日を拒んだのは、やはり仏教で日本の体制を整えようとしていた時の権力者にとっては、都合が悪かったのでしょうかね~。

ところで、道教に創始者が居ないと書くと「じゃ、老子は?」って話になりますが、ここで説明されていたのは、後漢末頃、道教は組織的教団と設立したのですが、その時の格付けで担ぎ出されただけだと言う事でした。
もちろん、老子は道教についての本も書いておりますが、決して創始者ではなかったというのが昨今の定説なんだそうです。


道教と日本の結びつきとして他に、
「役の小角(役の行者)」と言う名前はよくお聞きになるでしょう。
修験道の祖として信仰を集めています。
修験道は道教と密教と古来からあった山岳信仰が結びついて成立されたと言われており、日本ではお目にかかれない仙人ですが、この役の小角はまさしく仙人をイメージされますね。

そして絵物語として有名な「浦島太郎」
これもまた道教の影響を色濃く受けています。
浦島太郎と言えば、助けた亀に連れられて、竜宮城に来てみれば 絵にも描けない美しさ♪ ですよね(笑)
しかし、本来の「浦島物語」はちょっと違うのですよ。
浦島太郎は亀を助けたのは助けたのだけれども、悪ガキから助けたのではなく、釣り上げた亀に懇願されて逃がしたんです。
そしてその亀は女性に変化して浦島と夫婦になります。そしてその後、、女体化した亀に連れられて蓬莱山へ行き、そこで暮らしたという話になっています。
中国では蓬莱山は海に浮かぶ神山で、仙人の住む山だとされていることから、「浦島太郎」は仙人伝説として伝えられてきたお話だったようです。

このように、ちょっと探せば道教にぶつかると言う日本。
正式には伝わっていませんが、すでにしっかり浸透していたという事だったんですね。

一番身近なものと言えば、やはり暦でしょうね。
六白金星とか、大安とか、厄年とか・・・。
そういった暦は道教によって成立されたもの。
今では普通に日常に浸透していますよね。

今の日本の仏教は、インドから伝わった正式な仏教ではないけれど、それはそれ(苦笑)
私はそれでも日本人ですので、今の日本の仏教に帰依していきたいと思っています。
何よりも、信じていると楽、なんですよね。


【2009/09/20 16:32 】 | 歴史 | 有り難いご意見(1) | トラックバック(0)
聖地 寧波
「寧波」と言う町の事、ご存知でしょうか?

ギリギリになって奈良国立博物館まで行ってきました。
実は明日までの開催期間でした。

neiha.jpg行こうかどうしようかずっと迷っていたのですが、今の日本の仏教の体制の原点と言われたこの地の展覧会、見ておいても良いかと思い出かけました。
しかし、湿度が異常な一日で、盆地の奈良ではきつかったですね(苦笑)

教科書で「勘合貿易」と言う言葉が載っていたのを覚えてらっしゃるでしょうか?その港として寧波(ニンポー)の港が使われておりました。この地は仏教の舎利佛信仰の原点でもある阿育王寺・比叡山延暦寺の祖でもある天台宗改組最澄が学んだ天台山・曹洞宗改組道元が学んだ天童寺・観音信仰の聖地とされる普陀山等があり、今でも聖地として人が集まる場所だそうです。

ここに来て思ったんですが、京都、清涼寺・泉湧寺などが今に伝えるものが多く、意外に私は見ていたんだなと感じました。

ところで、偶然こんな祭りにも出くわしました。

http://www.basaramatsuri.com/

よさこい踊りというのですか?これ高知って思ってたんですが、最近は全国規模でありますね。
どうしてこんなに広まったんでしょうね。

いつも思うんですが、どうも、踊っている方には申し訳ないのですが、興味が無い為だとも思うのですが・・・、この踊りをみていると、踊っている人は非常に楽しそうだけど、見ている私には、伝わらないと言うか、なんというか・・・・。これは、見ているのではなく参加する踊りなんでしょうね。
【2009/08/29 22:56 】 | 歴史 | 有り難いご意見(2) | トラックバック(0)
持論・真田丸2
以前、忙しい年末に現実逃避材料としてこのような記事を書きました。→クリック
まぁ、それの続きみたいな話を少し。

某所で脳内妄想をフルに発揮して書いていた事をここでも記述しようかと思い至ったわけです。

大阪・高津宮で大阪の古写真を見つけました。
1691.jpgそれがこれ。1691年の地図です。
まだ、「真田山」「宰相山」という表記のなかったころ。
そりゃそうです。上記の名前は後世に付けられた名前ですからね。
この部分の現在の地図は→クリックここですが、気になっていた事があって、これもどこかで書いた気もするんですが、「宰相山」という公園がどうして元大阪城内に位置しているのかという話です。

「宰相山」という名前の由来というのがありまして、大坂冬の陣で真田丸を攻撃した前田宰相利常が陣を張った場所と言うはなしからだそうで、ありえませんよね。だって豊臣方にすれば敵ですのに、その敵が大阪城内で陣を張っていたなどと、普通に考えれば妙でしょう?

で、ちょっと歴史博物館で目にした仮説に大いにうなずけたわけです。
つまり「真田山と宰相山の地名の位置が逆転している」という説です。
それは大いにうなずけると思い、是が非でも大坂の陣に近いころの古地図を目にしたいと思って、先ごろあたふたとしていたわけです(笑)

で、この地図ですが、今の地図表記と同じように北を上にしてみました。
ここで見ると今の明星高校あたりに「真田曲輪」という表記があり、慶伝寺(現在も存在しますが)の下(南)に「加賀築山」と書かれています。
現在では真田山公園にあたります。

この加賀築山というのが今で言う宰相山ではないかと。

で、現在の宰相山付近には山の絵は描かれていますが表記はありません。
以前載せた文久3年の地図にあった「宰相山仁徳天皇社」というのは描かれておりません。→クリック
この仁徳天皇社というのが現在の三光神社にあたりまして、三光神社内にはこの社も祀られております。
そこで三光神社の位置を調べていますと、元々は今の玉造稲荷別社(東雲稲荷)という場所にあったようなんですよ。現在の地図では表記されておりませんが清水谷高校の長堀通を隔てた向かい側にあります。明治に入ってここに移転したようです。

それから気になったのが1691年の地図に描かれている並んだお寺。
心眼寺・大応寺(地図では大廣寺)などのお寺ですが、ここにこのお寺が当時からあったりすると、こんなところで寺などやっている事も出来ないはずと調べますと、どうやら大坂夏の陣以降、松平忠明(時の大阪城主)がここに城の防衛も兼ねてお寺を集めたのだそうで、大坂の陣当初、無かった事が判明しました。
つまり、ここも山、だったという事です。

上図の「真田曲輪」の部分ですが、ここだけで真田丸を作るのなら、この横の山ががら空きって事でしょ?
今はありませんがお城の東は猫間川が流れていて、防塞の一つになっていたわけですが、その猫間川もこの山で途切れていました。ですので、山といえど低山ですので、わーっと攻めてこられたらアウトでしょうに・・・。

真田丸で空掘りを作って前田勢をそこへ落っことしたと言う事なれば、山の上に作った方が戦略的にも在りだし、空掘りも作りやすいでしょう。

三光神社の裏にある陸軍墓地としては日本一古いと言われる場所は現在「宰相山公園内」になっていますが、ここは「旧真田山陸軍墓地」と言うのが正式名です。

(旧真田山陸軍墓地についてはこちらで→クリック

宰相山だと言いながらも戦時中、ここは真田山であるという認識があったという事でしょうか?

それともう一つ気になっていたのが「鎌八幡」事「円珠庵」の場所です。
真田幸村がご神木に鎌を刺し込んで戦勝祈願をしてから「鎌」を打ち込んで祈願するようになったという真言宗のお寺ですが、当時「お寺」ではなかったようですね。
最初はご神木だけがあったような感じです。
もしかして小さな祠があっただけではないかと推測しています。
この前の道ですが、以前にも書いたと思いますが「三韓坂」と呼ばれており、聖徳太子の時代、朝鮮から来た方々をもてなす迎賓館のようなものが真田山に存在し、そこへ繋がる道と言う事でこの名がついたという由来があります。
ですので、道があったと思われますが、上図ではその道も途中で止まっており、もう少し時代の下った地図を探してみたいと考えています。

enoki.jpg余談ですが、「鎌八幡」のご神木は「榎」とあるのですが、ふと思い出したのが空掘り商店街傍にある「榎大明神」。
(由来→クリック
鎌八幡もこんな感じだったのかしらと思った次第です。
この榎大明神、榎とうたいつつも実は「槐(えんじゅ)」
鎌八幡の「円珠庵(えんじゅあん)」と言う名前、もしかしてここも「槐」なのでしょうか。
調べるために中に入ればいいのですが、実は怖くて入れません(苦笑)
変な念を持って帰りそうで生まれてこの方一度も足を踏み入れたことがありません(汗)


【2009/06/21 18:04 】 | 歴史 | 有り難いご意見(3) | トラックバック(0)
大坂夏の陣と幸村の娘

osakagaku2.jpg産経新聞にも掲載されていました。

5月3日 大阪文学振興会主催(HP)の催し物です。
大阪の文学や歴史を市民に勉強してもらおうと言う会なんです。
事務所が一心寺内にあるので、
一心寺がバックアップしているのかもしれませんね。

osakagaku1.jpgさてさて内容は、
まずは「講談師、見てきたようなウソをつき」と申しますが、なかなかどうして、そのなかにも本当がいくつも入っており、今回のお題目「幸村の娘」と言うのは、
真田幸村の娘、梅さんの事。
演ずるは旭堂南陵師匠。
写真は会場の一心寺千体佛像堂。

幸村の娘は夏の陣の時、敵方であるはずの伊達政宗の家臣、片倉小十郎に託され、小十郎の後妻となっております。
この小十郎は、息子の方です。
実は片倉家は当主が名前を継いでいたのか、その後の話は知らないのですが、このときはそうだったようで、伊達政宗の片腕とされていた小十郎ではなくその息子、
小十郎重長に託されたようです。
そして奥さんが亡くなられた後、梅さんは片倉家の嫁になり子供が生まれています。

その場面の講談でした。

その講談を受けて歴史学者の北川央さん。
「普段は南陵師匠のコケ落としをするのですが、今日はなぜかホローに回っております」とおっしゃって、「実話が混ざっている」とおっしゃっておりました(笑)
なんでもいつも二人は対で講演をおこなっていらっしゃるようで、そのような事になっているようです。

北川さんが担当したお話は、秀頼と彼の子供のお話。
資料を読みながらの本格的な歴史勉強をしておりました。

さて、その話をザッとお付き合いください。

osakagaku3.jpg大坂夏の陣、豊臣秀頼は大阪城で自害いたしました。
これが通説です。
その場所が何処であったか。
大阪城では山里曲輪(やまざとぐるわ)で亡くなったと言う説を取り、写真のような石碑が建てられておりますが、北川さん曰く、「そんなものどこか解りませんから、こんな石碑を建てるのは実は反対でした」とのこと。



*家康の話が書かれている『駿府記』では家康の側近曰く「帯曲輪(おびくるわ)で自害した。
*南禅寺の僧の日記、『本光国師日記』では「唐物蔵」で自害した。
*伊達政宗の書状では「下の丸の蔵」で自害した。
*ひこにゃんで有名な井伊家の本『井伊年譜』では「東腰郭シユサン櫓」で自害
*藤堂高虎で有名な『藤堂家譜』では山里曲輪で自害。
*『土屋知貞私記』では「千貫櫓」で自害。
*『明良洪範』では「蘆田曲輪」で自害
*『武功雑記』では「玉造ノ櫓」で自害
とまぁ、どれもこれもバラバラで、
みんなまた聞きしているのか適当な事を書いているのか、そんなに場所は重要ではなかったのか、共通しているのは自害と言うことだけ(苦笑)

しかしこの自害と言うお話も実は生存説もその当時から流れていたのでもはやあやふや(苦笑)

わらべ歌で「花の様なる秀頼様を、鬼のやうなる真田がつれて、退きものいたよ加護島へ」と歌われており、当時、平戸(九州)にあった東インド会社の商館長をしていたイギリス人のリチャード・コックスと言う人の日記に、
「1615年6月16日、秀頼さまは生存し、
大名の彼に加檐(かたん)するもの多しとの風聞あり、しかれども予は皆虚説なりと信ず」と書かれてありました。
この6月の16日ですが、当時日本は太陰暦を使っており、彼はイギリス人ですので太陽暦(現在使われている暦)を使用しているので日にちが違っていますが、夏の陣直後のお話です。
それからひと月後にはこの風聞を信じて徳川家が九州に大捜査網を引こうとし、当時から仲の悪かった九州・島津家と戦になりかけたという話に至っております。

他にも彼の生存説を促した書物は沢山あり、
信州松代・真田家でその真偽を確かめるべく検証し始めたらしいのですが、結局真実でもないけどまったくの嘘でもないので後世の人に頼むとか書いているんですよ(『先公実録』)

それもこれも、遺体が発見されなかったというからでしょうね。

さて、秀頼の子のお話。
子供は二人。側室との間に生まれた男の子と女の子がおりました。
男の子は国松と言う名前でわずか8歳で京都で処刑されております。
子供の処刑は皆の涙を誘ったようで、家康は非道だと噂が絶えなかったようです。女の子のほうは秀頼の正妻にして、家康の孫にあたる千姫の助命嘆願により助けられ、尼僧となって全うします。

これは周知の事実。

しかしもう一人居たことがわかっております。

しかも助かるはずのなかった男の子。
びっくりすることに、彼は徳川家の菩提寺、増上寺の僧として父、秀頼の菩提を弔い続けたという話が残っております。
彼は死ぬ間際に己の素性を明かしたと言うのです。
誰の手配で彼が徳川家に近い場所で生き続けたのでしょうね。
あまりにも哀れだと思ったので、内緒で連れ帰ったのでしょうか。
『続日本高僧伝』と言う書物の「求厭(きゅうえん)」と言う高僧のくだりに載っております。彼は80歳まで生きたようです。


そんな歴史勉強の後、
一心寺の長老、高口恭行さんと旭堂南陵さんと共にゾロゾロと(苦笑)歴史散歩をいたしました。
その写真が新聞に掲載されているのですね(笑)

osakagaku8.jpg一心寺に本多忠朝の御墓があるのは以前書いた気がしますがそれがこの写真。
一心寺は大坂夏の陣の頃、焼き払われております。
現在、一心寺の隣で工事がなされているのですが、その地層からその当時の地層が出てまいりまして、焼かれた跡が残っていたそうです。
ここが激戦区であったことがうかがわれます。
忠朝の軍は今の天王寺ステーションビルあたりで布陣していたようです。
そして、忠朝の軍の前には大坂方の毛利勝水の軍がにらみをきかしていたんです。
それが今の四天王寺庚申堂周辺。
そして茶臼山の真田幸村軍の前には徳川方の越前兵が待ち構えておりました。
そこが今の市大病院あたり。
越前兵と忠朝には共通の事がありまして、どちらも冬の陣での失態を家康に叱責されているのですよ。
ですので今度こそ手柄をあげると勇み足だったんですね。
東西がにらみ合っていた境界線と言うのが今の大阪環状線と符合するとか(笑)
内と外でにらみ合っていたようです。

地図→クリック 

長老曰く、「デモを思い出してください。安保の頃学生闘争がありましたでしょ?あのデモ隊も後ろから後ろから押されて前にいた者がジリジリと押し出されます。あれと一緒だと思いますよ。歩兵たちがジリジリと押し出されて前で戦う。そして前が倒れたらまた後ろの奴が前になって戦い始める」
なんだかサメの歯を思い出したのですが、そんな風だったんでしょうか。
TVとかでみるとね、ワーッて走りだすイメージがあったんですけど。

道順は
本多忠朝の墓→

osakagaku6.jpg安居天満宮→

osakagaku7.jpgここは幸村最期の地だと言われています。

osakagaku4.jpg谷の清水→

osakagaku9.jpg庚申堂→

四天王寺南大門→四天王寺中の門 そして解散。

終わったのは4時半でした。

osakagaku5.jpg説明をされる旭堂南陵師匠

 

【2009/05/06 18:46 】 | 歴史 | 有り難いご意見(1) | トラックバック(0)
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