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浄土真宗で「般若心経」を唱えないという話を聞いて、マジですか?と思っていました。
確かにありません。 本来、親鸞は阿弥陀如来に帰依していれば何もしなくて良い(ちょっと大胆な書き方ですが・・・)と言う教えで(他力本願)自ら率先して功徳を得るという教えの「般若心経」とは異なる教えになる為に、自ずから唱えなくなったというのが定説なのだそうです。 「唱えてはダメだ」ではなく「唱える必要がない」というのが本当の所。 「呪」の文字があるからと言う説は、後日の解釈のようです。 (まじないなどを禁止しているからとありますが、それならば完全に日本人はアウトです。なにせ神道にも帰依していますからね~) 我が家は浄土宗です。 浄土宗では経文集に載っているのですよ。 法然と親鸞の教えの違いというか、多分、面倒な事を一切取っ払って、隅々まで仏教の教えが行き届くようにと、いわゆるスマートになった教えを親鸞は唱え、それがあたって一気に広まったのでしょうね。 今現在、日本で一番多い宗派は浄土真宗です。 それぞれ、基本となるお経があるのですが、般若心経はマルチという考えは当てはまってはいなかったんですね。 勉強になりました。 しかし、これもあやふやで・・・。 実は田舎の葬儀に行ったのですが、そこは浄土真宗で、納骨は葬儀の後に行われるのが一般だそうです。 もっとも、墓地がなければ置いておかねばなりませんが・・・。 「真宗では亡くなれば『神さん』にならはりますから、お骨そのものに想いはあらしまへん」と言われました。 「神さん」と言う表現は、限りなく日本人的な表現だなと思いつつ、聞いていましたけどね(笑) で、その納骨の時のお経だったのですが、「般若心経」でした。 もっとも、共同墓地だからかもしれませんが・・・。 結局、臨機応変というか、真宗の方でも「般若心経」を覚えていらっしゃる方が多いというので読経されるのか・・・。 この曖昧さが、なんとも(笑) そこで写経ですが。 聞いてみたんです。 「宗派が違うとダメですか?」と。 何処のお寺も「関係がありません」とのお答えでした。 「写経」と言う行いに意味があるので、宗派が違うとダメというのは無いようです。 「観音経」の写経を頂いた長谷寺は「真言宗」です。 「観音経」は「法華経」の中にある一文でして、これを基本経にしている宗派は無いようです。観音信仰と共に普及していったお経のようですね。 読みが違うとの事で、ここは長谷寺様に託します故に「真言宗」的読経が望ましいとの事でしょうか(笑) もともと私は「真言宗」だったのですが、宗派にはそれぞれ「○○派」とまた細かく別れているようで、そこでも少し違ってくるようですね。 ちなみに長谷寺は真言宗豊山派と言うのだそうです。 実家は真言密教でした。高野山派っていうやつですね。本家が和歌山ですから(笑) |
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今年の仲秋の名月は良いお天気に恵まれましたね。
→采女祭の概要 しかし、入水自殺をする采女が「私のような不幸な人間を作りたくない」から縁結びの神になる事にしたと説明があったんですけどね、誰がそう言ったんでしょう。死んだ采女だったんでしょうが、どなたが聞いたのでしょうかね~。 穿った考え方をすれば、単に天皇は恨みを恐れて社を建てただけなのではないかと・・・(苦笑) いずれにせよ「縁結びの神」様なのだそうです。 今年は日曜と重なったせいだからいつもの年より見物客が多いと何度もアナウンスされていましたね。 危険ですから押さないで下さいと・・・。 そりゃそうです、止めて下さい。 池には柵などありませんので前で私のように2時間も前から陣取っている者も多い中、後ろでたたれている方に押されたら池ポチャです(涙) 「采女」とは役職であって個人名ではありません。 祀るくらいならば名前を明らかにして欲しかったのではないかしらね~。 この辺りに「哀れ」と言う言葉を感じない、「誰だっけ?まぁ、いいや」って雰囲気が漂っているんですよね~。 それにしても昨日は良いお天気でした。 新しく出来ていた興福寺の回廊跡にみんな乗っかって、夕涼み。 なかなかおつな夜でしたよ。 |
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道頓堀です。 通説では安井道頓・道トと言う人が作ったと言う話になっていますが、実は違うのですよね。昭和40年にとある裁判がありました。この道頓堀の所有権を巡って安井道トの子孫が大阪市や大阪府を相手に11年も裁判を続けたらしいです。 しかし、昭和40年って・・・(汗) 道頓堀が出来たのは江戸初期、「大阪夏の陣(1615年)」があった年です。 それからん~っと約350年経ってますね~。どうして今頃?って感じです(苦笑)結局、所有権は認めて貰えず、その功績は称えるという事で堺筋に今でも功績碑が立っています。 そこで色々な資料が提出されて真実が明らかになってきたらしいのですが、実は安井道頓と言う人はいなく、彼の姓は「成安」と言うのだそうです。まぁ、正確に言えば決定事項では無いと言うのだそうですが・・・。 この「成安」姓。驚きの系譜が伝わっています。なんとあの坂上田村麻呂の流れを引く七名家の一つなのだそうです。 坂上田村麻呂→ウィキペディア で、その成安道頓さん。実は町人と言う話がありますが、彼は豪族、或いは系譜から武士だったと言う話が伝わっています。 大阪城築城に尽力を尽くした事から城南に地を貰い、そののち秀吉の命により東横堀川から木津川に通じる水路工事も担当しており、豊臣家の土木工事を担当していた家でした。 豊臣恩顧で成安道頓は「大阪の陣」で豊臣側に組します。そして彼は「大阪夏の陣」で戦死を遂げてしまうのです。その時既に道頓堀の着手をしていたのですが、事業半ばで戦死していますので、その意志を継ぎ、安井道トさんが完成させたのだそうです。 通説では 「安井道頓は町人で、商人の為に私財をなげうって道頓堀を作った」となっていましたが、いつからそんな話になっていったのか・・・。 私もずっとそう聞いていましたよ。 |
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