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久々に「最後の聖戦」を見ている。
ヲタな我が家で話題になっていたのが、「失われたアーク」はインドで撮影されたが実は日本で撮影予定だったと言う話で盛り上がってました(笑) 一説によると、信憑性はないのだけども古代ユダヤ人(ヘブライ人)は東と西に別れたのだそうです。それが3500年前だそうです。 それは日本人が持っている遺伝子でも科学的に証明されており、確かにヘブライ人は日本に来ているわけです。 アークとは、「十戒の石板」「アロンの杖」「マナの壺」と言う ヘブライの三種の神器が入っている箱の事です。 これが日本に運ばれたのではないかと言われています。 その説を信じ、古代ユダヤ人を追いかけているユダヤの一団が何度か日本にも来ていると言う話をニュースで見た事がありました。 そして、ジョージ・ルーカスはその説に従って映画を作りたかったようなんです。 しかし、選んだ撮影場所が堺にある「仁徳天皇陵」今の大仙古墳ですね。 宮内庁の管轄なので撮影許可が得られなかったのでインドになったそうです。 なんでそこに拘ったかと言うとですね、あの古墳の形にあるそうで、あれはいわゆる前方向円墳ですが、上から見ると「壺」に見えるのだそうです。 つまりこれは「マナの壺」を象っていて、「ミ・ガド」と言う言葉はヘブライ語で「ガド族出身」と言う意味なんだそうで、まぁ、ここまで書くと「帝?」って話になります。 賀茂家と言うのが日本にはあります。 秦氏の血縁ですね。 秦氏が今の神社を確立した家系ですよね? 賀茂氏は平安の世、京都で一番重要だとされていた水を守る家系として今でもいらっしゃいますが、平安時代では安部家と並んで陰陽師として活躍していた家系です。 この賀茂家こそ古代ユダヤ人の末裔だと言われているそうで、今現在、伊勢神宮が神社では一番権威があるとされていますが、実はそうではなく、神道で一番頂点に君臨する神社は京都にある下賀茂神社なのだそうです。 そして伊勢神宮に祀られているモノこそ、アークではないかと言われています。 アークは「移動するもの」なのだそうで、ひと処に居る事はダメなのだそうで、アークを祀る伊勢神宮も元・伊勢があるように転々と移動し、そして今現在「式年遷宮」と言う形をとっているとか。 だからアークをもたらした賀茂家の神社が上なんですって。 鳥居の姿こそユダヤの建物の入り口を模したものと言われているのですが、その他、山伏の格好こそがユダヤの姿と言う話もあって、色んな噂があちこちにあったりします。 キリストの墓が日本にあるとか、そんな話も残っていて、考えると、もしそうなら、キリスト教徒の聖地は日本って事になってしまいますね~。なんでも受け入れる国民性が全てを謎に変えて行ったって事なんでしょうかね~。 ああ、そうだ。 御神輿、あれはアークをかたどったものだと誰かが言ってたなぁ~。 いやはや、夢想はつきません。 PR |
以前、「郡山」のブログでチラリと書いた赤膚焼。
→クリック 今回、縁あって薬師寺から赤膚焼奈良絵の絵皿を頂きました。 それがこれ。 ちゃんと薬師寺の図柄です(笑) この癒し系図柄に心奪われています。 以前にも書きましたが、昔は興味なかった図柄です。 しかし、色んな事があって、このほのぼのとした雰囲気が大好きになっています。 赤膚焼の歴史は秀吉の弟、秀長が郡山城主になった頃、尾張常滑の陶工・与九郎を招いて開窯させたのが起源だと言われています。 しかしながら諸説ありまして、江戸期の茶人であり、庭プロデューサーでもある小堀遠州や、清水焼の陶工・野々村仁清が指導を行ったと言う話もあります。 赤膚山の土を使い焼いた陶器ですので「赤膚焼」と言うのだそうですが、この赤膚山、「新続古今和歌集」にも登場する山だそうで、赤膚の名前はずいぶん昔から知られていたようです。 そしてこの肝心な「奈良絵」と呼ばれている絵付け。 これも諸説あるのだそうですが、郡山城・家老、里恭(さととも)により、お釈迦様の生涯を描いた過去現在因果経と絵因果経を手本にしたもので、現流は東大寺大仏殿の銅座の蓮弁図にあるとされています。 現在では宗教的な図柄だけでなく、上下二本の線の中に人形や家、奈良の風景や鹿、昔の物語などの紋様が描かれています。 奈良は三十歳を越してからでないとその良さに気付かないと言われているようですが(苦笑)本当に、色んな経験をして、最後に救いと癒しを求めるものにあふれている国のように思えます。 そんな奈良も今年は1300年祭で盛り上がっていますが、やはり観光客の年齢はかなり高いです(苦笑) |
この壁紙はちょっとかわいすぎますが(笑) その事を知った彼はどう思っていたでしょうね。 『君が為尽くす心は水の泡消えにし後は澄み渡る空』 |
信長さんの子孫、フィギア・スケーターの織田君が出来ちゃった婚をするとかしないとか話題にもなっていましたが、彼の話では無く、織田信長さんのお話。
信長が細川家に出した手紙が約60通もあったそうですね。 NHKニュース→クリック それの6通が公開されているとか。 大阪に来るのかしら・・・。 東京どまりな展覧会が多くてつまらないです。 展覧会→クリック そんな信長さん、最近「歴史秘話ヒストリア」で取り上げられていました。 本能寺で死んだ信長さん。 彼の遺体は何処に?と言うミステリーが未だに解明されておらず、その影響力の大きさからあちこちにお墓が存在します。 京都・阿弥陀寺 → 地図 ここに残る古文書によると・・・。 ここの当時のご住職がまだ母親のおなかの中にいた頃、苦しんでいるところへ信長のお兄さんに助けられたのですが、結局子供は生まれたがお母さんは助からなかったのだそうです。 生まれた子供を織田家は育て、のちに京都の僧侶として出されたのですが、その人が阿弥陀寺のご住職だったそうで、その恩義もあり、本能寺の事を聞きつけ慌てて信長を救おうと本能寺に走って行ったそうです。 当時、本能寺は今の場所には無く堀川通り辺り(元本能寺町)にあり、阿弥陀寺もその近くにあったようです。 そんな事もあり、走って行く事が出来たんでしょうね。 住職が向かった時の本能寺はまだ騒然としており、表門からではなく、違う場所からもぐりこみ、信長の姿を探したんだそうです。 しかしながら既に信長は自害しており、ご住職は彼の遺体を法衣に包み、コッソリと阿弥陀寺まで持ち帰ったのだそうです。 そして遺体をすぐさま焼き、彼の葬儀を執り行ったと書かれていました。 その頃の阿弥陀寺は織田家のバックアップもありかなり大きなお寺だったそうです。 信長の遺体を求めて双方が右往左往している中、情報網の凄い秀吉がこの寺の事を聞きつけ、信長の葬儀を改めて執り行いたいと申し出たのだそうです。 しかしご住職はそれをキッパリと拒否。 死んでもなお、政治に利用されようとするのが嫌だったんでしょうね。 もう、ゆっくりと眠りにつかせてほしいとも思ったのかもしれません。 しかたがなく秀吉は木造を二体造り、その一体を償却し、信長と見立てて大徳寺で盛大な葬儀を執り行いました。 そのお墓が大徳寺・総見院に残っています。 あの秀吉がどうしてごり押しできなかったかと言うと、織田家に繋がりのあるご住職に手が出せなかった所為です。 ここで無理にすると、微妙な立場である秀吉は織田家家臣に狙われますからね。 後継者になりたい彼には良い事など何もないわけです。 しかし、ご住職が亡くなったと聞くや否や、秀吉は秀吉に逆らった阿弥陀寺を半分の敷地に縮小し、現在の場所に移転したのでした。 町の人々も秀吉の怒りを買いたくは無いので阿弥陀寺の参拝を控えてしまい、阿弥陀寺はすたれて行ったのだそうです。 しかし、それを救ったのは信長の小姓をしていた森蘭丸の森家。 阿弥陀寺には信長の墓だけでなく、本能寺で死んでいった蘭丸と彼の兄弟のお墓もあります。 移転された時に、遺骨も一緒に持って行ったと絶対に思いたいので、私はなんとなくこの阿弥陀寺に残る信長の墓こそ、本物ではないかと思ったりしました。 いつか、行けるかな~? 阿弥陀寺 |
大河の「龍馬伝」も好調な滑り出しを見せていますが、今年は幕末が熱いようですね。
以前こんな記事を書きました。→クリック 池田屋跡には店が繁盛しないからいっそ池田屋の復元をと書いていましたが、なんと「居酒屋・池田屋」が出来ていました。 店の人に聞くと京都太秦にある東映が監修したとか。 中には・・・。 ご存知大階段も作られてありました。 これを見た時脳裏に流れた曲が「蒲田行進曲」(笑) 「銀ちゃん~!」と言う声がリフレインしておりました(笑) お料理はまぁ、普通(苦笑)居酒屋ですしお値段を上げるわけにはいきませんから。 ランチメニューはこの「池田屋定食」の他に「近藤勇」「土方歳三」「沖田総司」「藤堂平助」の5種類のみ。 夕方からのメニューの方がやはり豊富です。 注文を受けた店員さんが「近藤勇3つ!」と厨房に言うんですよ(笑)「え?近藤勇 密通?」とか聞き間違えてしまって爆笑してしまいました。ただこの定食についているドリンクが冷たい飲み物しかなく、ウーロン茶のみ暖かいものが出てきます。みんな注文するとき「え~?アイスコーヒーしかないの?ホットが無いなんて」と言うぼやき声が聞こえてきました(苦笑) しかしこのお店、どうやら新撰組関連のイベントも行っており、東映太秦映画村とも提携しているようで、なんとなく使いようによってはこの先も今までとは違って生き残る可能性はありそうですね。 次に坂本龍馬終焉の場所でもある「近江屋跡」 やはりこんな記事を書いていましたが→クリック コンビニに大変身を遂げておりまして、中にはここにしかない龍馬グッズも販売しておりました。 石碑もなんだか立派になっていました。 立て看板が新しく設置されておりまして、他の石碑にも真新しい立て看板が建てられている様子です。 集客のチャンスですものね~。今年は幕末で京都は盛り上がりそうですね。 |
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