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【2024/05/19 05:38 】 |
若草山

wakakusa1.jpg奈良・若草山に15日の日、行ってきました。
生まれて初めての若草山です(笑)いやはや、若草山って思っていた以上に高い山だったんですね~(汗)気軽に行ける・・・・、いや、行けるのですけどね、軽い登山ですね(苦笑)
若草山って春と秋にしか開山していないのですね。まぁ、分かりますけど・・・。夏の暑さや冬の寒さにあそこはキツイ・・・。なにせ草原ですから。
で、この15日が春の開山最終日だったんですよ。
結構過ごしやすい日だったのですが、登っている間にダ~ラダラとガマの油のような汗が・・・。
wakakusa2.jpg最初の登山を終えると上図のような景色が広がるのですが、更に上があり右図のような上り坂が。
草原ですね~。この草原を作る為に早春、若草山は山焼きをします。これが奈良の風物詩になっていますね。山焼きの発端は1760年に東大寺と興福寺による領地争いだったらしいですよ。
しかし、これでは終わりません(笑)



wakakusa3.jpg更に上があったりします(笑)
この三重目頂上は実は前方後円式古墳になっており、「鶯塚古墳」になっております。古墳の上を登れるのですよね~。ビックリです。関西の古墳は殆どが宮内庁の管轄だったと思うので入る事は許されないのでは無かったでしょうか。ここに来るのに車でも来れるのかな?脇から来る方もお見かけしたような・・・・。う~ん、勘違いかも知れません。よく分かっていません。しかし、山頂に古墳があると言う事はやはり死者の魂は山へ帰るという昔の信仰があったからかも知れませんね。(→)この古墳は仁徳天皇の后・磐之姫命の墓所であると言い伝えられています。
また、上記のように山が三段層になっている為、三笠山とも呼ばれているそうです。しかし、1935年この山名に因んで三笠宮が創設される際に同じ名前では恐れ多いとして山焼きに因んで若草山に改称したそうです。余談ですが、関西では「どら焼き」の事をこの山に似ているからと言う理由から「三笠焼き」「三笠まんじゅう」と呼ばれています。

参考までに・・・。
若草山・・・標高342メートル
入山料・・・150円
開山日・・・毎年違うようですね(汗) とにかく秋と春(苦笑)目安として【春期】3月17日~6月17日【秋期】9月8日~11月25日頃。


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【2008/06/20 12:47 】 | 他府県コラム | 有り難いご意見(2) | トラックバック()
矢田寺
yata1.jpg奈良県斑鳩にある通称「矢田寺」はこの時期一番人出で賑わうのではないでしょうか。
紫陽花寺として昔から有名でして、紫陽花園の他に御影堂へと続く片山一面、紫陽花が植わっています。
先週の土曜日の状況ではまだ5分咲きと言うところでしたが、今現在で8分咲きなのだそうです。
今度の日曜、この矢田寺で邦楽のコンサートがあるそうです。
その頃だと丁度見頃なのではないかと思われます。
行かれてみては如何でしょう。バス停から坂道と階段がありますけどね・・・。そんなに大層な登りでは無いかも。ああ、でも人によっては「しんどい」かもですが・・・。
なんでもランキングというのがあるそうですが、紫陽花の名所として西日本では第2位だそうで、ちなみに1位は神戸市森林公園。第3位は京都・三室戸寺ですって。
yata2.jpgJR法隆寺駅から臨時バスがでているそうです。ゆがんだ画像ですが(苦笑)左図に載せておきます。
我が家からJR法隆寺駅まで35分程かな?斑鳩っていつも思うけど、「思っている以上に近い」場所です(笑)勿論、天王寺駅から快速に乗っての話ですけど(笑)



正式名は「矢田山金剛山寺」と言います。
ここは十一面観音様と吉祥天がご本尊。しかし、平安時代、地獄の裁判官とも言われた小野篁によってお地蔵様が安置され、そっちの信仰の方が有名になってしまったお寺です。お地蔵様と言えば地獄に堕ちた人でも改心していれば天に連れて行ってやろうといつも視察をしているという、「どこまでも救ってくれる」仏様ですよね。歴史は古く、1300年ほどの歴史があります。大海人皇子が必勝祈願の為に矢田山に登り、即位後、七堂伽藍四十八ヶ坊を建設したのが起源。
1622.jpg戦国時代・奈良の大仏を焼き討ちにした松永秀久によって堂塔が消失。(画面の絵はゲームのBASARAから拝借)その後復興して今に至ります。建物は無くなりましたが仏様は無事だったようで、ここの延命地蔵様は日本最古なのだそうです。




yata3.jpg境内には鎌倉時代に作られた「味噌なめ地蔵」があります(笑)ある時、造った味噌の味が悪いと嘆いていたら、夢に「私に嘗めさせろ」とお告げがあり、次の日、半信半疑で味噌をこのお地蔵さんの口元に塗りつけると味噌の味が良くなったと言われ、その後新しい味噌が出来るとこぞってお地蔵様の口元に味噌を塗りつけ「味噌の味が良くなりますように」と祈願したとか(笑)
お地蔵様は民衆に近い場所に居た仏様なのでこういった庶民的な伝承が結構多いですよね(笑)
【2008/06/12 11:30 】 | 他府県コラム | 有り難いご意見(2) | トラックバック()
1000年は長いですよ?
hou1.jpg奈良の法隆寺五重塔。
1300年もの間、風雪に耐え、地震にもめげずにこの塔は立ち続けています。
当時の建築家の腕の凄さもありますが、これを守り続けた人々の力もあると思うのです。

昨日、引きこもる状況からまた脱出すべく、雨を覚悟で奈良に出向きました。幸い、熱かったのですが雨にも降られずに1日を終える事ができたのですが、残念な出来事に出くわしました。
法隆寺に寄った時の事、この五重塔のこの正面にある柵を乗り越え中を覗き込む五〇代後半、六〇代前半の男性が1人いらっしゃいました。
「なんて事を・・・」と思った瞬間法隆寺の管理員の方が「中に入らないで下さい!」と慌てて出てこられたんですよ。
「ちょっとぐらいなんだから良いだろう?」と反論を始める男性。
呆れましたね・・・。
ここは「すみません」と直ぐに謝る場面だと思うんです。
なのに「ルールに従って下さい!文化財の保護の為です」と言う管理員の方に更にくってかかろうとする。
見れば普通の生活をなさっているかのような方々。(○ボウとかではなく)なまりが無いので関東かその周辺の方の仲間内だけの観光のように思われました。
みんなに見られて舌打ちでもしそうな感じでその場を離れて行かれました。

残念です。
立場的にも上に居るであろう、誰かを指導して行くであろう年齢の方ですのに、こんな事を平気でするのはそんな時代に育ってきた所為だからでしょうか・・・。あまりのモラルの無さに呆れてものも言えませんでした。
個人主義がもて囃されたあの時代。古き伝統を捨て去り、新しい欧米式のものが全てにおいて「格好が良い」と思われていた時代に青春を送ってこられた方々に、時折こんな風にモラルのない方をお見受けするのが凄く残念です。

一千年と言う流れを、「興味がない」で何をしても良いと言うのは間違っていると思えます。その1300年という年月、どれ程の人々によってこの建物を大事にされてきたか。この建物に想いを残してこられたか、そして数え切れないほどの信仰心。それらの重責を、この人は受け止める事ができると言うのでしょうかね・・・・。

そして最後に。
忘れないで下さい。寺院にあるこういった塔というのはストゥーバ(卒塔婆)です。つまり、分骨された釈迦の骨を納めた建物なのです。そう、早く言えばお釈迦様のお墓なのです。そのお墓に土足で踏み込む事自体、やってはいけない事なのだと思っています。
【2008/06/09 15:13 】 | 他府県コラム | 有り難いご意見(2) | トラックバック()
槐樹

enjyu.jpg「槐樹」
この漢字が読めなかったんですよ~(苦笑)
「エンジュ」と言うのですってね。
実は名前は聞いた事があったのですが、実際に見たのは初めてかも知れません。
これは「枝垂れ槐樹」
7月に花が咲くそうです。
日本では一般的に「槐」と書いて「エンジュ」と読むようですね。
ちょっと花が咲く頃にもう一度見に行きたいかなと考えています。
場所はこちら。
saidaizi1.jpg西大寺にある宝物館「聚宝館」に御座います。(写真は西大寺本堂)
実は、お恥ずかしい話、つい最近まで私はこの西大寺の存在を知りませんでした(汗)
京都の西寺の如く「無くなってしまった寺」だと、どういう訳か思いこんでいて、5年ほど前にTVニュースの「大茶盛式」を見て、「あったのか」と気付いたわけです。思いこみって怖い(苦笑)ちなみに、「大茶盛式」というのは1人では到底もてないほどの大きな抹茶茶碗を3人がかりで持ち上げ点てられたお茶を頂くという行事。(→●

西大寺は東大寺と共に国家鎮守の為に建立された寺院。
平安時代に衰退したのですが鎌倉時代に復興。しかしその後室町時代に何度も火災を経験し、江戸時代に復興し今現在の状態になっているそうです。
木造騎獅文殊菩薩及脇侍像5躯と呼ばれる文殊様が安置されています。これがまた美しい菩薩様で、乗っていらっしゃる獅子が少し斜めに顔を振っていましてね、その辺りが特徴なのだろうかと思われました。

西大寺までのアクセス
近鉄「大和西大寺」下車、徒歩3分
行ってみて、「こんなに近くにあったのだ」と分かりました(苦笑)
正直、西大寺は都会でして、建物が隣接していてここにこんな伽藍があったのだと気付かなかったのですよ~(汗)

実はこの日、三番目の授業が無い日でして、あまりにも天気が良かったのでかねてより考えていた「写経」を始めようと思い、出かけました。最初に選んだのが「薬師寺」だったのです。
yakusizi1.jpg薬師寺は本来僧を育成する機関。ですのでここのお寺では葬式を執り行う事はできません。早い話、ここの僧が無くなったとしたら、ここではなく別のお寺から僧を迎えて葬儀をして貰わなければならないという特殊なお寺です。
その為に檀家を持たないお寺でして、伽藍を復興する事も簡単には行かなかったのです。薬師寺は天武天皇により発願(680)、持統天皇によって本尊開眼(697)、更に文武天皇の御代に至り、飛鳥の地において堂宇の完成を見ました。その後、平城遷都(710)に伴い現在地に移されたものです。(718)しかし平安時代に殆どの伽藍を火災で焼失し、その後何度も復興し再び兵火により消失を繰り返していました。今現在国宝とされる薬師如来及び日光・月光菩薩も雨ざらしになっていた事も度々あったようです。
高田 好胤と言うお坊様がいらっしゃいます。記憶に残っていらっしゃる方も多いかと思われます。「タレント僧侶」と陰口を叩かれた事も度々。しかしこの人の心はただ一つ、なんとか失った伽藍を元に戻したいと言う思いで、ただ寄付して下さいというのでは申し訳ない。それならば、写経をして頂き、その金子で復興しようと考えたのでした。一つのお堂を復興するには100万巻の写経が必要でした。世間の人々はそんな事はできないと口々に言ったそうです。その願いの為にこの方はあえて宣伝担当を引き受け、寝る間も惜しんで講演などを重ね、写経のお願いをして廻ったと言います。yakusizi2.jpg

高田 好胤はこう言ったそうです。
「菩薩の道は回り道です」と。
1人1人の信心がこのお寺を復興させて行くのです。集められた写経は「おたき上げ」しないで、全て、復興に使われたお堂の上に経堂を設け、そこに末代まで保管されているのだそうです。この先何百年、何千年後、このお寺がどのような方々によって寄付され建てられたのかをしめす為に残しておきたいと、その様な構造で建てられているのだそうです。
薬師寺に本来から残されていたのは東塔と東院堂のみ。復興されたのは西塔・昭和56年(1981)、金堂・昭和51年(1976)。この二つは法隆寺の鬼としてその名を世に知られる宮大工・西岡常一によるものです。そして中門・回廊、大講堂も同時進行で着手されたのでした。
yakusizi3.jpgこの写真は玄奘三蔵院伽藍です。
この建物は平成3年に建てられたものです。
昭和17年(1942)に南京に駐屯していた日本軍が土中から玄奘三蔵のご頂骨を発見しました。中国に返還した後、その一部を中国から日本仏教界に分骨して頂き、玄奘三蔵の法相宗を受け継ぐ薬師寺にも分骨され、それを祀る為にこの伽藍が建てられました。この背後の伽藍には平山郁夫の玄奘三蔵の旅を描いた壁画があります。今ではすっかり様変わりしている中国。このスケッチされた景色はもう見る事ができないと説明されていました。

写経をしようと思ったのはただただ己の為。己の気休めかも知れないのですが、運命に逆らって死んでしまった娘の安らかなる成仏を願う為でした。
どうせするなら、お役にも立ちたいと、こんな経緯を聞いていたのでここから始める事にしたのです。私の積む功徳を私に変わって娘に行くよう、お願いしながら・・・。

薬師寺までのアクセス。
近鉄「西ノ京」駅下車すぐ。

【2008/05/15 21:42 】 | 他府県コラム | 有り難いご意見(1) | トラックバック()
黄泉への道

ikaruga.jpg



両親の墓参りに土曜日に行きました。
まぁ、色々報告もあったし、お願い事もあったし・・・、いや、怒られたかったのかも知れませんね。
死んでもまだ心配ばかりかけている悪い娘です(苦笑)

両親の墓は奈良にあります。
近鉄電車に乗って奈良に向かうのですが、いつも漠然と感じていた事が唐突にクリアになりました。

生駒トンネルを抜けると奈良です。
生駒トンネルは黄泉へと続くトンネルだと感じたんですね。

黄泉というか太古へ繋がる道?
まぁ、そんな感じです。
このトンネルと抜けると心が現世から軽く離れるのです。
以前、奈良に大陸的な風がながれるとこのブログで書きましたが(
→●)そんな奈良は私にとって太古で黄泉で、つまり自分の原点だったのではないかと思ったんですよ。
心が辛い時、古いものの好きな自分はいつも無意識に奈良に行っているのです。
そこは父の故郷で、私自身も小さな頃から訪れている場所で、自分にとって優しい時間を共有出来た場所でもあったわけです。
決して雅では無いかも知れないけど、丸ごと自分を受け入れてくれるおおらかさが欲しくて行くんだろうなと思うようになりました。

とある番組でキンキキッズの堂本剛君が言っていたんですけど、
「奈良は空が広い」と。
なるほどと思いました。
大きな建物の多い奈良の建造物、そして平城京跡に見られる広大さ。
そこには京都にない文化的な建物の姿さえ遠くに見えてしまうほどの広さがあって、空を見上げると広いんです。
だからこそ、風が走っていくんです。
農家のまだ残る地域の中に立つ寺院。
遠くからでも見える五重塔。

空が広い。
本当に広く感じます。
なのにそこに確かな文化があって、秋に行くと黄金に輝く田畑から反射する光が神々しくも思えます。
いつまでも路傍に座って風と空を感じていたくなります。

愚かな自分でも大きく手を広げて迎えてくれるような・・・・。
奈良そのものが極楽浄土ではないかとさえ思える時もあるのです。

そして十分癒されて私は再び生駒トンネルを抜けて現世に戻ってくるのです。

見上げるとツバメがいつの間にか飛んでいました。
ツバメはその昔、渡り鳥とは知らなかった昔の人が、ツバメはあの世から来る使者だと信じられていたそうです。
渡り鳥なんだと分かっているのに、コッソリ、ツバメにお願いしている自分に苦笑しながら家路へと向かいました。

*奈良にお住まいの方へ
「黄泉」という表現を使った事お詫びします。私の中で「黄泉の国」というのは松尾さんがおっしゃるとおり「魂の帰る場所」という意味として理解していましたので、決して忌み嫌われる場所では無い事をご理解下さい。その場所は誰しも戻る故郷のような場所で、一生懸命生きて、そしてご褒美で戻れる、人として大事な故郷なのだという意味です。奈良の温かさがそんな風に私に感じさせてくれるのです。感謝しています。ありがとう御座います。
【2008/04/13 20:12 】 | 他府県コラム | 有り難いご意見(11) | トラックバック()
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